いも郡長「林 顕三」(はやしけんぞう)

 いも郡長こと林顕三(はやしけんぞう)は、天保14年(1843)加賀国金沢藩に生まれた。明治6年石川県雇として北海道に来航し、その後サハリンにも足をのばし、明治7年「北海紀行6巻」を著した。明治12年再び来て一時開進会社を起こし、岩内地方で農業改良などの成績をあげ、北海道に明かるかったので、明治17年12月道南の日本海側の漁村・久遠奥尻太櫓瀬棚の郡長を命ぜられ翌年単身赴任した。
 赴任に先立ち、郡長となることを勧めた函館県令の時任為基に挨拶に行き、任地の貧乏で苦しんでいる人びとをどのように救済したらよいかと相談したところ、「二宮尊徳の教えに従い、勤務貯蓄の法を以て、海産のみに依頼せず、農業を盛んにし、奢侈を戒め、節酒をしてやれ」と言われ、はなむけに県令の自家菜園でつくったバレショ百包を贈ってくれた。
 当時の函館・江差間の道はけわしく、冬は単身では歩けない状態であったが、芋を行季に入れて積雪を踏んで赴任した。
 任地の瀬棚地方の海岸では、ニシンなどの漁業のみに頼っていたため、一度不漁になると、冬に餓死する者がでるありさまであった。このため、県令の言葉通り、バレイショの耕作を奨励した。在職中に、『久遠(くどう)旬報』の付録として『馬鈴薯誌』200 部を印刷して、有志に配った(後の明治26年に、「植民富源 馬鈴薯誌 全」として再出版)。人びとは、この芋つくりを熱心にすすめる郡長の働きぶりやバレイショについての深い知識を認めて、「薯郡長」と呼ぶようになった。さらに村人は薄漁の窮状を救ってくれたことに感激し、明治19年から毎年正月3日に久遠神社でイモ祭りを始めた。その後転勤を繰り返し、上川支庁長より根室へ転ずる際病気になって閑ができたので、旧著を増補して『北海志料』と言う本の編集も行っている。これには明治20年ころのバレイショのあらゆる面に言及している。イモ祭りには、「自作のバレイショを各自持ち出し、たくさんのイモモチを製し、大なる鏡モチを神饌に供し、・・・当日は国旗を掲げて戸々相祝す」と述べ、イモもち、イモ米(乾燥粉末)、むしイモ米、みそ、雪の華(凍結乾燥芋)、ようかん、けんちん、ふきんこもち、でんぷん、などの項目をあげて農家自家消費のための解説している。食用のほかの効用としては、でんぷんを製造する時の芋をすりつぶした水で洗濯すれば、汚れが落ちること「石鹸水ニ異ナラズ」とある。寡黙で、職務に忠実ないわゆるジャガイモとも言うべき人で、平素は読書を好んだ。明治28年札幌外8郡長に任じ、29年上川支庁長、33年根室支庁長を歴任し、39年64才で没した。明治37年、短歌誌文や旅行記を収めた「散閑延久佐 附樺太日記」を旭川で出版している。(浅間和夫)



カット写真は、別の薯郡長として江差地方で知られた市来政胤の墓。
差町立資料館のある丘で。

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