ポテトエッセイ第17話

わが国へのジャガイモの伝来【ジャガイモ博物館】

←長崎の出島ミニチュア
 わが国へのジャガイモの伝来 <1998.12加筆追加>
 ジャガイモがわが国に伝来したのは、いつで、その場所はどこかについてはいくつかの 説があります。

@慶長3年(1598)オランダ人が長崎へ...どこか間違っている
 ジャガイモの渡来について書かれたものは蘭学者大槻広沢著『蘭*摘芳』(1831*の漢字は田の右に宛)で、「オランダ船でジャガタラ産を長崎へ持ってきたのでジャガタライモとよぶ」と意味の記載が初めてでています。
 長崎商業会議所の明治44年(1911)刊の「長崎誌」では、慶長3年に南蛮人が、平戸に持ち込んだ、としています。これらの説から、南蛮人イコールオランダ人として定着し、慶長3年長崎県に入った、となっているようです。
 1581年イスパニアから独立したオランダは,その後新興国としてイスパニア,ポルトガルと東洋の貿易の優位をかけて争い,ジャワ島に上陸したのが1596年6月(ジャワ島西部のバンテン港に停泊したコルネリス・ド・ハウトマンの船隊)であり、@の慶長3年よりわずか2年早いものでした。ついで、1602年にはジャガタラに東印度会社を設立し,東洋貿易の拠点としていました。
 そしてまた、日本に来た最初のオランダ人は,慶長3年ロッテルダム港を出航した5隻の探検隊が,途中暴風雨や病気,食糧の欠乏などに遭遇しながら,ついにその中の1隻リーフデ号だけが慶長5年(1600、関ヶ原合戦の前)4月9日,豊後(ぶんご)のサチヴイ(臼杵市左志生)に漂着したウイリアム・アダムス(三浦按針)らでした。
 つまりオランダ人は、「長崎誌」のいう慶長3年より遅れて来日している計算になります。したがって、慶長3年にオランダ人が持ち込むことはあり得ないことでした。もしも、慶長3年が正しければそのころ平戸に出入りしていたポルトガル人が持ち込んだことになり、オランダ人が正ければもっと後(たとえば慶長年間後期)のことと思われます。

A最初に長崎へ入ったとすれば慶長年間後期か
 渡来したところが長崎だと限定すれば,オランダ商館が平戸から移転した寛永18年(1741)以降ということになる。オランダ人だとすれば、慶長3年にはオランダ船の長崎港への入港はなかったので,慶長年間であってもその後期ではなかったかと思われる。
 当時のジャカルタの名は1527年ころバッタム(バッタン)王国がつけたもので、これ以前はスンダ・カラッパ(カラパ) Sunda Calappa(民族名スンダ+土語カラッパ、意味は椰子)と呼ばれていました。現住民の主体となっているインドネシア人は、紀元前2,500年から500年ころ中国南西地域からインドネシア半島を南下し、東インド(現在のインドネシア)諸島にひろがったものでした。
 1511年にポルトガル人がマラッカを占領し、ジャカルタを中国、日本などとの貿易港として使っていました。1527年ころ西隣のイスラム教徒のバンタム国が占領し、王の一族が統治し、それまでの呼び名スンダ・カラッパからジャカルタに変更したのです。
 しかし、ポルトガル人などのヨーロッパ人は、これをなまってジャカタラと呼んでいました。また、カラッパ(カラパとも言う)の名も残って、明朝が1589年(万暦17年)、南洋各地八十八地の渡航船に与えた渡航許可証のあて先に「咬 ロ留 ロ巴」(カルパ)とあるのは、この音にあてた漢字で、後年略して ロ巴 域 とも書いて使いました。
 ポルトガル人が種子島に漂着したのは1543年(天文12年)で、サツマイモが宮古島にきたのは1597年であり、当時ポルトガル人はジャカルタをジャカタラとなまって呼んでいました。オランダ人の東洋での活躍はポルトガル人よりも遅れをとったのです。 オランダは、1581年のユトレヒト同盟でスペインに対して独立を宣言して以来、スペイン・ポルトガル両国によるリスボン入港拒否にあい、それを契機に、東洋貿易に従事しようとする会社が、次つぎと誕生した。そのひとつのロッテルダム会社に属するリーフデ号が慶長5年(1600、関ヶ原役直前)に漂着した。
 1602年、株式会社の元祖と言われるオランダの東インド会社が設立され、1611年にジャカルタの土地を買収して商売の館を設け、貿易を定期的に営んでから、町がしだいに発展していきました。
 慶長14年(1609)才ランダ船2隻は平戸港に来航し,江戸に上ってわが国との通商の許可を求め,同年平戸にオランダ商館を設立した。
オランダは、1619年にいたりジャカルタに来襲したイギリス軍を撃退し、ジャカルタの南方に町を新設してオランダ人南方経路の拠点とし、城の改築、拡大も行いました。 この1619年東インド会社の命によって、町と城とをオランダ民族名バタビにちなんでバタビアと命名し、1621年8月以来これを公称としました。この後19世紀の始め一時イギリスに制圧されたこともありましたが、300年間オランダの植民地となっていました。もかすると、ジャカルタと呼ばれた時代に入ったからジャガタライモで、1620年あたりより遅く入ってきたら、バタビアイモとなっていたかも知れません。
 江戸時代初期には、オランダが兵力と労力の補充に平戸から日本人を数10人単位でジャカルタに送りだし、1630年代までに常時100人前後の日本人が住んでいました。1632年11月の外来移民数は8,058人で、オランダ人2,368人、日本人83人、中国人2,390記録もあります。

 以後,平戸を窓口としてオランダとの貿易が始まるが,海禁政策の第一次鎖国令は寛永10年(1633年)に出され、寛永16年(1639)の鎖国令で強化され、慶長18年(1641),オランダ商館は長崎の出島に移転した。ジャガイモのヨーロッパでの普及も考えると、ジャガイモはこの頃、つまり17世紀前半に日本(長崎)に入ったのではなかろうか。
 なお、島原の乱が起きたのは1637年(寛永14年)で、翌年幕府が切支丹宗を禁じ、改宗に応じない人を長崎から追放しました。この中に「お春」という少女もいました。オランダが活躍したころでもバタビアを冠しないで彼女のことを「ジャガタラお春」、資料を「ジャガタラ文」とか呼んでいるところをみると、ジャガイモがたとえ遅く17世紀に入ってきたとしても、バタビアイモになっていなかったことでしょう。  平戸港時代のジャカルタとの人の交流の多さ、バタビアイモではなく、ジャガタライモの呼称がより多く使われていたことなどを考えると、オランダ商館が平戸から長崎に移転する寛永18年(1641年)より前に渡来していたと考えるのが無理がない。
Bポルトガル船が平戸へ持ち込んだ可能性は少ない
 日本人と西洋人との最初の接触は、天文(てんぶん)12年(1543)種子島西の村の小浦にポロトガル商人など百余人が乗った船が漂着したことに始まる。この後領主時堯(ときたか)を鉄砲の的中率とその発する音で驚かすことになる。この後も16世紀に数度にわたって来日している。そして長崎にも、天正4年に来航している。しかし,この年代はヨーロッパでもジャガイモは導入初期であって、まだわが国への伝来は難しいと考えられる。その後ポルトガル船は寛永16年(1639)まで長崎に入航しているが,この年第五次鎖国令が出され,キリスト教禁令によって,以後の来航は禁止された。
 これまでの間にポルトガル人によって,ジャガイモが平戸に持ち込まれなかったとは断定しにくい。しかし、わが国のいくつかの地方にジャガタライモと共にオランダ語のアップラがのこっていることからオランダ人が持ち込んだのが定着したと考えたい。
C「南京芋」がジャガイモなら天正4年(1576)に入っているが
 また、日本に最初に入った年は、喜田茂一郎著の『長崎年暦両面鏡』(1828)という年表によりますと、「天正4年南京芋種長崎に渡る」と書かれている。 ここでいう南京芋がジャガイモであることが前提であれば正しい。しかし,江戸時代ジャガイモを南京芋と記述したものはまだ見当たらない。
 これまで述べてきたこと判るように、1576年にオランダ人が持込むことは考えられなく、また、野口文龍の『長崎歳時記』(1797年)の正月の雑煮の材料として「南京芋(は)里芋なり」とあるようにサトイモのようです。
 なんきんいもが見られたのは,阿野剛著『農家備要』(明治3年)にある「馬鈴薯」(なんきんいものルビがある)が初めてですが,「南京芋」と書かれていたわけではありません。おそらく,これと『長崎年暦両面鏡』の記事が組合わされて,この説となったのでしょう。初めてでてきたのは、白井光太郎『植物渡来考』(昭和4年)であり、「...一名キンカイモ、一名南京芋、一名アップラ...」の記述がジャガタライモの名称の項にみられます。
 なお、これより古い高野長英の『二物考』(1836)では、いくつかの地方に「ヂャガタラ芋又アップラ(オランダ語アールド・アップルに由来)」の呼び名があり、オランダ商人が種を伝えたものだと書いてあります。別名でポルトガル語のものが知られていないことからオランダ人による可能性が高い。明治期になるとこういったことを引継いで『大日本産業事蹟』「農牧林業之物産」(明治24年)において「ジャガイモが本邦へ伝来したのはいつのころかはっきりしないが、昔オランダ人がジャワ島を植民地にした後(商人がジャワをおさえたのは1598年で、本邦の慶長3年のこと)であることが明かである。だからジャガタライモ,又はオランダイモの名がある」と書いてあります。
 以上をまとめますと、ジャガイモは慶長年間(1610〜1620年前後)にオランダ船によって平戸に持ち込まれ、ジャカタラにちなみジャカタライモ、ジャガイモとか呼ばれたり、オランダ語からなまったアップラなどと呼ばれるようになった、とするのが正しいのではないでしょうか。
なお馬鈴薯はマレーに由来下ものではなく、江戸時代の学者小野蘭山がその著書『耋莚小牘(てつえんしょうとく)』(1807年刊)の中で中国での呼称として書いたのが始まりです。元来中国語だったのです。
1998年12月加筆訂正
【暦】 1511 ポルトガル人がスンダ・カラッパ(後のジャカルタ)を貿易港とした。
1527 イスラムのバッタム王国がジャカルタと名付けた。
1543 ポルトガル人が種子島に漂着。
1581 オランダがイスパニアから独立。
1596 オランダ人がジャワ島に上陸。
1602 オランダが東印度会社設立。
1621 オランダがインドネシアの首都ジャカルタをバタビアと命名。
1637 島原の乱
〜1639 これまでポルトガル人がわが国に渡来。
1639 鎖国令。「ジャガタラお春」らを長崎から追放。
1741 オランダ商館が平戸から長崎に移転。
??? ジャガタライモがいつ、長崎?に来た。

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