ポテトエッセイ第59話

ロシヤへ =昔は嫌った【ジャガイモ博物館】

 ロシア帝国へのジャガイモの導入は、ピョートル一世(大帝)の最初のヨーロッパ視察旅行(一六九七〜一六九八年)のときのようです。大帝は、旅先のアムステルダムからペテルスブルグのシェンメチェフ男爵あてに、「ジャガイモをロシア各地に配布し、増殖に努めるべし」との親書を添えて送り届けました。しかし、帰国後の忙しさにまぎれて、大帝がジャガイモの増産計画を忘れてしまったのか、それとも種イモを受け取った地方の官吏が怠けていたのか、ロシアにおける最初のジャガイモ栽培は立ち消えになってしまいました。  これには、若い皇帝の進取の気性に反発するロシア正教会の態度も普及の妨げになっていたようです。すなわち、司教たちは、ジャガイモを「不幸の実」とか、「悪魔のリンゴ」と呼んでののしり、正教分離派の信徒たちは、祈りの度に「ジャガイモに呪いあれ」と繰り返していたほどでした。  しかし、ジャガイモは寒さに強く、生育期間が短く、他の作物よりも出来、不出来の差が少なかったので、一七三○年代に入ると、除々に人びとに知られ、ペテルスブルクの上流社会では、ごく普通の食べ物になっていきました。そして、エカテリーナ二世時代の一七六五年には、ロシア医師会の発意を受けて、最高統治機関である元老院が、「大地のリンゴ、またはカルトーフェリー(共にジャガイモのこと)の栽培と利用」に関する法令を議決し、ジャガイモ栽培を奨励する特別の通達を全国に発しました。  このロシア元老院の議決はしだいに効果を現しました。医師のアファナシー・シャフタンスキーは『一七八三年度 チェルニゴフ県地誌』の中で、「カルトーフェリーは、県内ではごく普通の作物である」と書いてました。十八世紀以後、栽培技術などの改良がさらに進み、収量水準が高まり、ジャガイモは小麦に代わって、「第二のパン」として民衆の生活に根づいて行き、今日では単収は低いが、栽培面積では世界で最も多い国となっています。

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