ポテトエッセイ第106話
最近昔あった教科書「修身」の復活が話題にのぼったりしていますが、戦前のものに載っていたものを紹介しましょう。
そこで本場の実用英語を学ぼうとしたのか、一旗揚げて農場経営をしてみたいと夢見たのか明治21年(1888)渡米した。そこでアメリカ人の主食であるポテトに目をつけ、借地してジャガイモとタマネギの栽培を始めた。4人の共同経営であったが、ジャガイモの不作が予想されると、他の3人は彼に借金をかぶせて逃げてしまった。その後借金を返し、長いヨシが生え毎年水害にあう土地を改良し、いろいろな災害を克服し、ついに4万haもの耕地を切り開くことに成功し、カルフォルニアの全ジャガイモ生産量の8割以上を占めることもあった。やがて牛島はポテト・キングと呼ばれるようになった。
明治から大正時代にかけてカルフォルニア州バークレーで、広大な畑にジャガイモ(馬鈴薯)をつくり、同州の相場を左右していた実業家がいた。人びとは彼をポテト・キングと呼んでいた。彼の農場から生産されるジャガイモは100万俵にもなり、同州の全生産高の8割を越えることもあった。
彼の生まれは現在の久留米市梅満町掛赤で1864年のことでした。頭脳明晰で、小学校のとき飛び越し進級試験を受けようとしたら、先輩たちから袋だたきに遭ったほど。漢学者江崎済が現在八女市上陽町北川内に隠遁し、北義塾を開いたので、その門下生となりました。後上京し、漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)に入り、東京商業学校(現一橋大学)予科に進学したが、その後東京商業学校本科には不合格となった。
そんな1906年4月18日早朝サンフランシスコが大地震に見舞われました。人びとの住む家がこわされ、食糧が不足した。早速彼ジョージ・シマは、パン、肉、ジャガイモなどの食糧をトラックに積んで、毎朝市民に無料で配り、市民から喜ばれた。
1908年に結成された在米日本人会の初代会長として邦人の世話をよくした。人種的偏見からくる排日運動の緩和につとめ、引き続きボランテア活動をするなど,大きな功績をあげた。日本人に自信をもたせるだけでなく、みすぼらしいアメリカ婦人を気楽に車に乗せてやるなど、親切で、曲がったことが嫌いで、あっさりした豪傑肌の人であった。一度事業にあたるときは、真剣にとり組み、品質のよいものの生産に努めたので、彼の信用は絶大であった。
若いときから苦労の合間に広い教養を身につけ、漢詩をつくるのが好きであった。雅号は別天。
彼の亡くなったのは大正15年(1926)、62歳(この年同じくカルフォルニアにいたルーサー・バーバンクも死亡している)。死後、その功績に対し、勲四等旭日章が追贈された。
今では日本はもちろん、カルフォルニアでもジョージ・シマを知る人はほとんどいなくなりました。しかし、出身地にある「ポテト王を語る会」では、鳥飼小学校付近の梅満町の小公園に郷土の偉人の身長と同じ180cmの生誕地の碑;を平成11年(1999)に建立し、命日の3月27日の近い日曜日に碑前祭をジャガイモ汁をつくり顕彰しています。