***江戸幕末、ジャガイモのすばらしさを紹介した***

高野長英

 今年(2008年)は国連の食糧農業機関(FAO)が決めた国際ジャガイモ年です。
ジャガイモは短期間に約4もの生産を上げることができる太陽エネルギー固定率の高い作物で、ご飯に比べてもビタミン類をバランスよく含んでいることから、今飢餓にあえぐ多くの人々をこれで救おうと、世界各地でいろいろな行事をペルーのリマにあるシップ(CIP,国際ジャガイモセンター)などが行っています。

 かって、我が国でも『ジャガイモが飢餓を救う作物である』と本をまとめて普及に尽力した高野長英という医者で蘭学者がおりました。
 「天保の大飢饉」は天保4年(1833年)から7年続いた。特に関東・東北の惨状は目を覆うばかりであったという。
長英は、この天保の凶作に際して、庶民の窮乏を救うため、天保7(1836)年医者ながら『勸農備荒 二物考』という本を著し、早生ソバと馬鈴薯(ジャガイモ)のふたつの栽培をすすめました。現場から先を読むすごい人でした。
 しかし人々の関心は今一でした。日本人はコメに慣れ親しんできており、ジャガイモは味が淡白で、このコメの食事に合わなかったためでしょう。
 ジャガイモが注目されだしたのは明治半ば以降でした。コメつくりの困難な北海道などの冷涼な地域の開発が進んだり、肉を多くとるようになって、肉にジャガイモ合うのが判りだしてからでした。

【高野長英の歩み】
 文化元年5月5日(1804年6月12日)仙台藩水沢留守家の家臣後藤実慶の三男として生まれる。9才で父を亡くし母親美也の実家にもどり、叔父高野玄斎の養子となります。
養父も祖父も医者で、家には蘭書が多く、この高野家での生活が、少年長英に蘭方医学への興味をいだかせた。
 1820年、17才で兄湛斎、従兄弟遠藤養林と江戸にでて、吉田長叔(ちょうしゅく)の門人となり、蘭学を学び始める。後に長叔から一字をもらい高野長英となる。
1825年、長崎行きシーボルトから蘭学を学び、ドクトルの称号をもらっています。
 文政11年(1828年)、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた地図(伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図)などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死し、シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。
 長崎の多くのシーボルト門人が捕まったとき、長英はたまたま旅行中だったので難をのがれることができました。自分で蘭学塾を開こうと考えた長英は、西日本をまわり江戸にもどることになります。つまり、熊本から京都まで診療と蘭学講義の旅を2年あまり続け、天保元年(1830)10月26日に江戸に戻りました。江戸にもどった長英は武士を捨てます。
 町医者と蘭学塾を開業しました。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として仲間と蘭学書の翻訳に当たりました。天保3年(1832年)、紀州藩儒官遠藤勝助らによって天保の大飢饉の対策会として作られた学問サークルである尚歯(しょうし)会に入り、崋山らとともに中心的役割を担っていました。長英の『二物考』などの著作はこの成果と言えます。精力的な活動を続けられ、自立した長英の最も充実した時代でした。
 「天保の大飢饉」を背景として、天保8年(1837年)「大塩の乱」が起きました。  大坂町奉行与力・陽明学者・大塩平八郎による、幕制批判の蜂起でした。
 同じ天保8年、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件も起きました。 1839年、渡辺崋山らと江戸幕府の異国船打払令を批判し、長英はそうした意見をまとめた『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著し、内輪で回覧に供してました。しかし長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回わることになります。
 これが幕府批判の罪にとわれ、長英は、渡辺崋山などとともに捕らえられました。世にいう「蛮社(ばんと)の獄」です。長英は永牢(無期懲役)となり、牢屋から無実をうったえ、何度か赦免を願うが、放免の願いはかないませんでした。
1844年、牢屋火災で長英は解き放される。3日以内に戻るという掟を破り、長英はそのまま行方をくらます。(脱獄をにおわす「角筆詩文」の検討などから、長英の計画的脱走説があります)。 牢を脱走した長英は、郷里にいる母親のもとに戻るが、蘭学は江戸しかないと再び江戸に戻り、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏しました。医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられるので硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされています。
こうして町医者沢三伯を名乗り、隠れ家で妻のゆきと同居していたところを、嘉永3年(1850年)10月30日幕府役人に召し捕えられ、立ち向かった後喉を突いて自殺したとも、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられたときは既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する途中に絶命したとも言われています。47才でした。

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