芋判官「湯地定基」(ゆちさだもと)

 芋判官こと湯地定基(ゆちさだもと)は天保14年(1843)、薩摩藩士の長男として生まれ、藩命により明治3年アメリカに渡り、マサチューセッツ農科大でクラーク博士の農政学などを学んできた。北海道開拓使が廃止され、箱館、札幌、根室の3県に分かれた際、明治15年2月、箱館(現函館)近郊の七重勧業試験場から初代根室県令として根室に赴任してきた。これより先の11年にも根室にきていたこともあり、当時の根室はもちろん現北方領土の人びとも食糧の不足に悩まされていることを知っていたので、着任早々部下に命じて農業の普及に力を入れた。しかし米麦はもちろん、野菜類も他所に求めなければならないほどの寒冷な地であり、食糧供給のための海路も不安定であったにもかかわらず、漁師たちは農業を嫌った。
 前任地でジャガイモが寒冷な北海道によく適することを熟知していた湯地は、当時五升芋と呼ばれていたジャガイモの種をもって各戸を回り、農具を与えるなどして強制的に奨励した。県令の熱心さに、しぶしぶ重い腰を上げて試作してみると、海霧の多い根室でも比較的とれた。狙いとする冬季間の食糧事情の緩和に役だっただけでなく、その後根室地方の特産品にまで成長した。人びとは五升芋の奨励に熱心な県令を「芋判官」と呼ぶようになった。
今日芋と言うと田舎臭いなどの軽蔑の意をも含むが、「芋判官」の場合は、発端はともかく、後の入植の実施、千島経営、道路開削工事などの実績をみて捧げた愛称と思われる。根室の住人はあだ名を献上するのが好きのようで、明治2年から根室に住んだ松本判官には、彼がアイヌのアツシを好んで着こみ、船の荷役人夫が不足したときは、陸揚げを手伝うこともあったから、「アツシ判官」、「裸判官」などとつけている。それだけでなく、町名にも松本町とつけた外、「芋判官」湯地定基から定基町を、黒田清隆から清隆町を採用している。
いも判官の職は明治19年の3県廃止、北海道庁の誕生によりその副知事相当の理事官就任まで続いた。その後、明治24年から35年にかけて現在の夕張郡栗山町に農場の創設を企画して数回にわたって土地の貸下げをうけ、いずれも洋式機械をもって開拓に成功したため、同町に湯地の地名も残っている。昭和3年86才の時東京で死去した。
 なお、湯地は、前任の七重勧業課試験場時代の明治9年(1876)春の明治天皇の箱館御巡幸の際には案内役を務めている。この時植えたアカマツ並木は、今でも国道5号線を車で走る人びとに深い印象を与えている。
 なお、昭和16年にいたり、照宮成子内親王殿下が、大沼におなりになったのを記念して補植を行った。七飯町開基100年の昭和52年の調査によると、樹齢100年以上のもの808本、40年以上のもの346本、そのころ補植されたもの371本で、1,525本のアカマツ、クロマツが植えられていた。また、この松並木は昭和50年町木に指定された。
 【蛇足】明治11年(1878)の全国平均単収(10a収量)は340kgと言われているので、1株平均100gにも満たないものでした。
 湯地定基の妹静子は陸軍大将乃木希典の妻。

函館市五稜郭公園裏の「男爵薯をたとう」碑


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