ポテトエッセイ第15話
【← 芋大明神(山梨縣米山優氏提供)】
ジャガイモ(馬鈴薯)は別名・異名が多い作物です。この多さは、沖縄県の離島から北海道最北端まで広くつくられ、かっては主食にもなった側面をもつ野菜であり、調理も簡単で取っつきやすい面のある身近なたべものであることに起因しています。
あなたの御両親はジャガイモを何と呼んでいますか。ニドイモ、ゴショーイモ、それともキンカイモでしょうか。
ニドイモなら東北か近畿の出身、単にイモとかゴショーイモやバレイショなら北海道あたりと言えば当たる確率が高いでしょう。キンカイモですか、それなら本州の西岡山、山口県方面でしょうか。
ジャガイモは関東から中部地方に広く使われていましたが、これが標準語化しつつありますので本書でもこれを使いました。ニドイモ(二度イモ)、サンドイモ(三度イモ)は年間の栽培回数から名付けられのでしようがジャガイモの普及移動に従い年1度しか収穫できない東北地方で使われ、ゴショウイモ(五升イモ)、ハッショウイモ(八升イモ)は1坪(1株?)からとれる量の多さを表わし、ナシイモ、マンジュウイモなどは形が似ているからとか。
伝来した地名をつける例もあります。ジャガイモはジャガタラに由来しますが、バレイショがマレーに由来するとしているのは間違いです。馬鈴薯は中国語からとったものです。馬鈴薯は中国では本来マメ科植物のホドイモの名であったとする説もあります。
甲州イモ、信州イモ、秩父イモなどは取り寄せ先の地名を使ったものです。人名では、甲州代官中井清太夫に由来するセーダイモ、セーダが山梨県にあります。
ジャガイモは古くから日本にあったものではなく、16世紀末?に長崎に入ってきた比較的新しい植物です。その割に多数の別名があるのは、ジャガイモが私どもと密接なかかわりがあったことを示しています。しかし、しだいにジャガイモに統一され、ジャガイモと人との関わりを示すものが減りつつあります。
北海道内のジャガイモ研究者が集まったある会議のおり、ジャガイモの呼び名をできるところから統一しようじゃないか、との話があり、検討したことがありました。
呼び名を研究機関の看板からひろってみますと、道立北見農業試験場には「馬鈴しょ科」(平成10年移転)というのがあり*、農水省の北海道農業試験場には「ばれいしょ育種研究室」(平成9年移転)**、また長崎県の試験場には「愛野馬鈴薯支場」***というのがありました。これらは、漢字とひらがなの比率が少しづつ違っていますが、皆ポテトの研究や改良を行っています。このように、官庁とか農協ではひらがなの「ばれいしょ」を使うことが多く、学会などではカタカナの「ジャガイモ」、北海道の一般のひとは単に「イモ」を使うことが多いので、一つの資料でも担当者によっていろいろ書かれます。 国木田独歩は『牛肉と馬鈴薯』と書き、「じゃがいも」と読ませました。また、日本病理学会などでは「ジャガイモ」、昔あった日本馬鈴薯研究会の機関誌「ポテト サイエンス」では、「バレイショ」と片仮名が多くなりますので、やや混乱してきましょう。 ところで、貴方はひょっとすれば「ゴショウイモ派」ですか?。土の中では「ばれいしょ」と呼ばれ、スーパーの店頭では、「ジャガイモ」、主婦は「おジャガ」と思って持ち帰り、料理されると「ポテト」に変身する、とするのがよく似合いそうです。
付記:(平成25年2013年現在の呼称はそれぞれ、*地方独立行政法人 北海道立総合研究機構農業研究本部 北見農業試験場 作物育種グループ、**独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 北海道農業研究センター バレイショ栽培技術研究チーム、***長崎県総合農林試験場 愛野馬鈴薯支所となっています)
北海道での使用記録をたどってみましょう。 探検家最上徳内が天明6年(1786年)に本道に持ち込んだ時は「五升芋(ごしょういも)」を使っていました。また、箱館奉行村垣淡路守が安政3,4年のころを記録した『村垣公務日記』でも、ペルーの蒸気船の箱館来航に続いてきたアメリカ商船の求めに応じて、奉行所が「五升芋」250俵を都合したことを記述しています。
また、寛政年間に松前藩主道広の家来が信州より「五升芋」を導入し、虻田で栽培した記録もあります。 アイヌ語でも、「五升芋」がなまった「コソイミ」や「エモ」が使われていたことから、「五升芋」が古くから使われていたと考えていいでしょう。
安政四年に松浦武四郎が著した『丁己 東西蝦夷山川地理調査日誌 第二三巻 由宇羅布日誌』の八雲における記述に、ダイコン、ヒエ、アワ、キビなどと共に、ここでは「呱m芋」を栽培していることが載っていました。 同じころ、今のクナシリ島が間近に見える別海町野付半島の番屋で、番人兼通訳の加賀屋伝蔵という人が「五升芋」または「すないも」と呼んで先住民族に栽培させていたという記録もあります。 さらに、松浦武四郎が安政三年(一八五六年)に記述した『竹四郎廻浦日誌』(巻の壱)の福島村、及び(巻の参)熊石村の項には、初めて「馬鈴薯(ばれいしょ)」の文字が出てきます。
ただし、その福島村の項には、「人家百五六十軒、一条の町をなし、名物馬鈴薯というものあり」 と書かれています。こちらのほうの「馬鈴薯」とは本物のジャガイモのことで、近ごろ流行の一村一品の紹介文でしょうか? 否、正解は遊女のことです。当時遊女をカジカとも書いていました。頭髪を飾りたてたからです。このように、当時遊女は地元でとれるもので呼ばれることが多く、福島村では「馬鈴薯」とも呼ばれていたのでした。
この蛇足は別としても、ポテイトウの呼び名には、安政年間からいろいろあったのですが、このことは、アワ、ヒエなどより身近で重要な食糧であったことを示しているのでしょう。
北海道ではイモまたは馬鈴薯がよく使われ、長崎でも似た傾向があります。馬鈴薯は隠岐や九州北部でも聞かれる。北海道ではかって五升芋、砂(すな、しな)いもも使われた。全国に広く使われているのはジャガイモ。ジャガタライモは関東から中部で耳にされる。
なお、オランダ語のaardappelからきたアップラ、アッフライモ。長崎などで「カピタンイモ」とか「カピタイモ」などと言ったのは、ポルトガル語のカピタンのcapitao、オランダ語kapiteinからきたと思われる「船長、商館長、オランダの役人の意味から」に由来し、カビタイモが長野にあります。
土地からみでは、シナノイモ(信濃)、シ(ス)ナ(砂?)イモ、シンシューイモ(信州)、ゴーシュ(江州)イモ。
形や色からついた、マルイモ、ナガイモ、アカイモ、ムラサキイモはそのものずばり、つるつるしているからキンカイモ(はげ頭)、ナシイモ、マンジュウイモなど。ナリイモはライ病を意味する方言と関係があるとも言われています。マルイモは形の長い「メークイン」以外のものを一括して呼ぶこともあります。
形の悪いものがたくさん着くからでしようか、阿房芋、馬鹿芋と呼ぶところもあるようです。
五升芋の由来
元北海道庁職員の辰木久門(たつき くもん)はその著『北の味覚』(みやま文庫)の47頁に、
「また、馬鈴薯を(五升イモ)と呼ぶいわれは、明治初期、函館に住んでいた某外人が、一株から五升マス一ぱいのイモをとったからだという。それではと、長崎では水田の裏作から八升とったから《八升イモ》だとハナを高くするが、それは風味ぬきの話で、北海道の粉ふきイモは、やはり天下の逸品゛ある。」(昭和45年7月刊)
とありますが、当時の単収は想像できないほど低く、植えたイモの2,3倍ほどであったことから想像すると1株からではなく1坪(3.3u)から5升のイモを獲ったことに由来すると考えるのが妥当でしょう。
蛇足1 南京豆
皮のついたのを落花生、皮を剥いて味付けしたのはピーナッツと呼ぶって話もある。同じく南米原産で中国経由で入ってきたカボチャを関西ではナンキンと呼ぶ。
蛇足2 詩集から。
北海道詩人協会会員の瀬戸正昭さん(札幌)は、その詩集『野菜小詩集』のなかで、次ようなちょつと変わった詩を44頁に載せています。
ジャガイモ 歴史的芋名録
じかとらいも
じやがたらいも
にどいも
さんどいも
ごしよいも
おたすけいも
こうぼふいも
せ−だいも
せんだいいも
カンプラ
アップラ
シマバラ
アーリィローズ
めーくぃん
すのーふれーく
ゆきじろ
わせしろ
とよしろ
だん爵
伯爵
紅丸
薯
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