>ポテトエッセイ第9話
(←『男爵薯を讃える』碑)
わが家には田んぼは無かったが野菜農家のため、イモ・カボチャの類だけは十分あった。ある朝、そのジャガイモを自転車の荷台に積んで、五稜郭の古本屋に立ち寄り、恐るおそる英和辞書との物々交換を申し入れた。戦中とは逆の農村から街への逆買い出しである。幸い、店主は気楽に応じてくれた。かくて、海外につながる知的好奇心を少し満足させてくれる本が手に入った。
今、私は札幌のマンションに住み、長沼町の北まで車で通っている。マンション生活というと聴こえは良いが、現実は並以下の共同住宅で狭いという欠点がある。極端な言い方をすれば、新しい本の居場所を確保するため、今後使うことがなさそうな本から順に処分して行かなければならない。
そんな中で、捨てられてよい年代物なのに、今だに生き残っている1冊の本がある。研究社昭和2年刊「新英和大辞典」がそれである。
終戦の翌年函館の中学校に入り、郊外から市内までの数キロを自転車で通うようになった。当時進駐軍が函館水産専門学校を接収していた。中学で習ったEGGという単語を兵隊の胸に見つけ、それがあだ名だと判り、軍隊と言えば厳格な規律のあるところと思っていたそれまでの教育に照らして、奇異に感じたり、精いっぱいの英語をぶっつければチョコレートをもらう以外にも役立ちそうに思われた時代であった。
本には旧持ち主の名前が墨で大きく書かれていた。それが目障りであったが、中学1年生の本棚では1番厚いものだった。この辞書から得たラテン語などの語源の知識は、その後の大学受験の際の語彙拡大に役立ち、ジャガイモの元はとっくに取らしていただいた。
今では、版が重ねられ、もっと良いものが出てきた。しかし、私より先にこの世に出たという古さの故だろうか、かえって処分できずにいる。