ポテトエッセイ第22話

カビが歴史を変えた【ジャガイモ博物館】


 家庭菜園にジャガイモを植えてみた経験がある方なら、自分の畑でとったイモを翌年植えたら収量が半減したとか、7、8月の雨の後、葉がカビにやられて早く枯れ上がった経験とかがあるかも知れません。ジャガイモは、トウモロコシなどの他の作物に比べると、数多くの病害虫にとりつかれます。各種の細菌や菌類、それにアブラムシが媒介するウイルス病等々の外、生理的障害も多い。
 疫病という葉や茎を枯らす厄介な病気(カビ)もある。これがアメリカの政治、従ってその影響をうける世界の政治に影響を与えたのですた。
 1845年、疫病は初めヨーロッパの比較的温暖な地方で流行していたのですが、8月にはイギリス、9月にはアイルランドへと広がっていきました。葉が落ち、茎だけが枯れて残り、ようやく着いたピンポン玉のような小さなイモさえ表面からレンガ色になったり、悪臭を放っていました。
 疫病は翌年にも大発生しました。その後の凶作も加わり、一説ではジャガイモを主食のようにしていた一〇〇万人を超える人びとが死亡し、1851年から1905年の間に約400万人がアメリカなどに新天地を求めて移住して行きました。江戸時代の天明の大飢饉に相当する規模でした。この時アイルランドを支配していたイギリスの首相が、フランスにおけるぶどうに対するボルドーのような有効な対策をたてれなかったため、辞任に追い込まれました。
 それまではジャガイモは人口の増加に役だっていました。しかし、産業としては農業、特にジャガイモ偏重であったため庶民の生活はまだ貧しいものでした。このため今日でも『アイリッシュ』と言うときは、貧しい人という意味を含んでいます。
 アイルランド系の海外人口は、世代が進み混血もあるのでどの範囲からアイルランド系にするかは難しいのですが、本国よりも多いといわれています。
 アイルランドの首都ダブリンの南西の田舎町からアメリカへ渡った人びとの中に、レーガンやケネディ大統領のひいじいさん達もいました。正にカビの発生が世界の政治に影響を与えたのでした。あの小さなカビはクレオパトラの鼻の高低以上の効果があったのです。ケネディ一家のように、『自分の祖先はアイルランド人であり、自分のふるさとはアイルランドである』と思っているFBI(フォーリン・ボーン・アイリッシュ)を海外人口として数えています。
 ケネディ家はレーガンの先祖の出身地から約50km離れたダンガスタウンの村からアメリカへと渡っていきました。父と一緒に渡米した2代目は、ボストンのスラム街で酒屋をはじめて成功しました。3代目は銀行家・事業家として成功し、駐英大使にもなりました。4代目である長男は第二次大戦で戦死し、次男のジョン・F・ケネディが上院議員となり、1961年には第35代大統領になったのです。
 1984年6月アイルランド東部にある首都ダブリンの南西160kmにある人口250人の田舎町バイポリーンに、レーガン米大統領夫妻一行がヘリコプターに乗ってやってきました。実はレーガンのマイケルひいおじいさんが19世紀の半ばの大飢饉の際(1858年)アメリカに渡っていたので、ほぼ1世紀半ぶりの里帰りでした。
 アイルランド系のアメリカ大統領としては、クリントン大統領までで20人になるとも言われています。
 アイルランド人にとって、ジャガイモがかけがえのない生命の糧(かて)であることは、次の言葉によく表現されています。「いとつのイモを食べている間に次のイモの皮をむき、3番めのイモを手に取り、4番めに目星をつけておきなさい」
 この言葉は食事の際、老人が若い世代に、転んでもただでは起きないど根性を教えたものでしょうか。

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