ポテトエッセイ第58話

フランスへ =貧民のためのパンか【ジャガイモ博物館】

 ジャガイモがフランスへ入ったのは、他のヨーロッパ諸国に比べて幾分遅く、田舎の貧民の食物として使われた外は、主として貴族の間だけで珍重され、17世紀初めのルイ13世時代でも、宴会での珍しい食べ物として試食された程度でした。17世紀末のルイ14世のころになっても、一般大衆からは嫌われ、貴族階級の美食の対象にとどまっていたようです。
 ところで、ジャガイモがなぜこんなに一般大衆から嫌われたのでしょうか。もと小樽商科大学の加茂儀一氏は、この原因について次の4つを上げていました。
 第1にはジャガイモにはサツマイモのような甘味がないため、煮て塩をつけるか、あるいは油でいためなければ食べれません。したがって、味のもの足りないジャガイモは、高価な薬味をつけたり、フライにして食べることができる階級によってのみ、美味なものとして食卓を飾ることができたわけです。言いかえると肉食を十分にとるほど余裕のある家庭では、たっぷり肉の味がしみついたジャガイモを美味なものとして賞味できたのです。しかし、貧しい人達は、薬味や肉類をまったく手に入れることができなかったばかりか、パンをも買うことができなかったので、味の淡いジャガイモをそのまま食べざるを得なかったのです。
第2に、当時のヨーロッパでは、ジャガイモをおいしく料理する方法を知らなかったこと。とくに、19世紀に入ってイギリスで考案されたシチューのように、肉とジャガイモを一緒に料理する方法がなかったうえ、安い肉を自由に手に入れることが難しかったことも大きく影響していたようです。
 一般に、当時のアイルランド人は煮ること、フランス人はフライにすることが調理の主流であり、この習慣はそれぞれの国で根強く残っていて、調理法を安易に変えることは非常に困難であったのです。このため、それ以外の方法でジャガイモを料理することは、考えられませんでした。このこともジャガイモの普及を妨げました。
 第三に、ジャガイモを完全にパンの代用品とすることができなかったことです。これはジャガイモの普及にとってかなり致命的な障害になったわけです。
 第四に、ジャガイモの普及を最も遅らせた原因として、イモ(塊茎)の形状にちなんだ迷信があったのです。
 人間の知識がまだ進歩していなかった時代ほど、人々は迷信に左右されやすかったようです。たとえば、濃厚な赤色のワインを飲むと血液の動きを活発にするという迷信がありました。また、赤い砂糖ダイコン(シュガー・ビート)の汁は貧血の女に効きめがあるとか、黄色いクサノオウは黄だんの治療剤である・・・、と思われていました。
 同じように、ジャガイモについても、有毒であり、そのコブ状の形かららい病など流行病の原因になると信じられていた時代があったのです。
 1630年代、フランス東部の都市ブザソンの議会で、「ジャガイモを増やすことは禁止する。もしこの禁を破れば、罰金を科す」という決定をしていました。
 1770年代、ニューイングランドでも親方と徒弟との間で結ばれた契約には、「親方は徒弟の食と住を保障しんければならないが、その際ジャガイモを徒弟に供してはならない」という項目もあり、1748年に、フランスで出版された『スープの学校』という本の中でも、「おおかたの意見によると、ジャガイモはあらゆる野菜のうちでも最も悪質なものである。しかし人類の最も多数を占める庶民はこれを食べている」と、軽蔑的に記述していました。
 さて、フランスはルイ15世の時代にポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争に巻き込まれ、ついで、前に述べたジャガイモ戦争の時には、愛人ポンパドール夫人の進言に従い宿敵オーストリアと結んでイギリスとも戦いました。その結果、アメリカ大陸やインドで広大な領土を失ってしまいました。しかもルイ15世は、戦後の財政の窮乏の中にあっても、愛人とのぜいたくな生活に明け暮れし、国事をかえりみなかったため、国民の厳しい批判をあびました。このポンパドール夫人や、その後の愛人ヂュ・バリィ夫人は政治にまで口をはさみ、王の補佐官ショワズールをも追放させるほどでした。
 このような中で、1769年と1771年にヨーロッパは大凶作に見舞われたのです。このため、フランス・アカデミーは、飢饉の際小麦に代わることのできる食物を賞金つきで募集することになりました。これに七人が応募したのですが、なんと七人全員がジャガイモ栽培を提案しました。その一人にセーヌ県の薬屋さん、アントワーヌ・オーギュスト・パルマンティエ(1737〜1813年)がいました。
 彼はジャガイモ戦争の時、ドイツのハノバのフランス軍に所属していましたが、その時初めてジャガイモと出会ったのです。彼は五度もプロシア軍の捕虜となりながら、その都度ジャガイモを食べて生きのび、そのジャガイモの偉大な価値を身をもって認識していたのです。
 彼の提案を採用したフランス政府は、宣伝書などをつくって栽培を奨励しました。ルイ16世の援助によってパリ郊外のレ・サブロンの原野に20haの展示試作畑を設けました。収穫期が近づいたころ、一計を案じ、「これはジャガイモと言い、非常に美味で栄養に富むものである。王候貴族が食べるものにつき、これを盗んで食べた者は厳罰に処す」と看板をたて、付近の農民にもっともらしく警告しました。そして昼は大げさに看守をつけて見張らせることにしたのです。
 これを見た農民は大いに好奇心を駆り立てられました。「王侯貴族が食べるというものを、盗って食べてみようジャネイカ」などと言いながら、看守の寝靜まった夜陰にすきを窺って掘り出す者がでてきました。
 深夜のイモ泥棒を、見て見ぬふりをするよう指導したのは、パルマンティエでありましたが、この策略が効を奏し、ジャガイモの普及に拍車がかかったのです。
 この秘策のヒントは、オランダのチューリップの父と呼ばれるクルシウスが珍奇なチューリップの球根を花壇で栽培し、これを誰にも譲らなかったので、園芸好きの連中によって球根が盗みだされ、これがオランダにおけるチューリップ栽培のもとになった ことから得たものらしい。

【図.国王ルイ16世がボタン穴に飾るジャガイモの花束の献上を受けているところ*。【社会思想社刊エピソード科学史W30頁より】】  さてこのポテト・ヒーローことパルマンティエは、ジャガイモ晩餐会を開いて駐仏大使としてアメリカから来ていたベンジャミン・フランクリンや栄養学の父ラボアジェなどの有名人を招待し、種々の珍しいジャガイモ料理を披露したこともありました。
 また、ルイ16世は、パルマンティエよりボタンホールにもたせるようにつくったジャガイモの花束の献上を受けたり*、夜会で王妃マリー・アントワネットの帽子の縁や美しい髪に飾ったりしました(豊満な胸に飾ったというのは、水分供給を考えると、無理がありましょう)。ジャガイモの花は、夕方にはしぼみやすい。このため、肌のつや、肩と首の線はギリシャ風、歩き方や会釈の仕方はまことに優雅と言われた王妃にどれほど似合ったかわかりませんが、この後貴族高官の庭には競ってジャガイモが植えられ、上流社会に広がっていきました。

【図.ベルサイユ宮殿2階のマリー・アントワネット絵】
【パルマンティエト】 青木昆陽のフランス版とも言えるこのパルマンティエの銅像は、かってイモ畑であったニュイイーNeuillyに建てられ、パリのメトロ駅には農民にジャガイモを手渡ししている像もあります。また、現在のフランスのジャガイモ料理には、「ジャガイモ添え」の意味で、彼の名が使われています。たとえば、マッシ・パルマンティエ、パルマンティエ風オムレツ、パルマンティエ風ポタージュ、パルマンティエ風肉料理などという具合です。
 パルマンティエのように、料理の名に人名が使われる例はほかにもあります。先にちょっとふれたルイ十五世の愛人ヂュ・バリィはカリフラワーが好きだったので、「ヂュバリィ」と料理名に残っています。これは、小さめの花野菜をゆで、これを同様にゆでた朝鮮アザミの芯の上に並べたオードブルの一つです。
 さて脱線から戻って、アントワネットはジャガイモの花を豊かな胸元に飾ったなどと尾ひれがついていますが、夫のルイ16世に比べるとジャガイモを好んだのは事実です。夫はパルマンティエの功績に対し『フランスは貧民のためのパンを発見した人に感謝する』と表彰したほどの認識しかありませんでした。アントワネットは幼くして政略結婚し、無邪気で陽気な人柄ではありましたが、少し教養が無く、軽卒で、わがままな面があったのでフランス国民から好まれていたわけではありませんでした。
「国民はパンが食べられずに困っています」
 との報告をうけて、不審そうに、
「それならどうしてケーキを食べないの」
と聞いたといいます。この台詞はアントワネットのものとされていますが、実はルイ15世の娘(ルイ16世の叔母)であるヴィクトワール内親王が、飢饉のときに言った言葉と言われています。

 さてここで、何故かフランスのジョークをひとつ披露させてもらいます。
 ルノー自動車工場で、労働者が昼飯を食べながら話していました。そのうちの一人が言いました。
「グーテンベルクって、どういう人か知っているかい」
「知らん」
と、みんなが言いました。
「エヘン、みんなも、僕のように夜の学習会にくればわかるよ。グーテンベルクは十五世紀に印刷術を完成させた人だよ。じゃ、パルマンティエを知っていますか」
「ノン」
と、みんな。
「パルマンティエはジャガイモ栽培をフランスに広めた人さ。君たち、僕のように夜の学習会に出ないと、一生無学だよ」
 すると、一人の溶接工が気を悪くして言いました。
「うん、わかった。だけど、おめい。トトシュが誰か知っているか」
「ノン」
「それじゃ、おれも一つ教えてやるさ。トトシュてのはな、おめいが学習に行っているあいだ、おめいの女房と寝ている奴よ」

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