芋代官「中井清太夫」、芋司祭「ジャガイモ司祭」

芋代官こと中井清太夫


江戸時代の代官中井清太夫は、上飯田代官より安永6年(1777)甲府代官に就任し、天明4年(1784)に谷村代官を兼務し、郡内領を併せて支配するようになった。天保4年(1833)の天候不順による大飢饉は、その後さらに2年も続き、子供の間引き、捨て子が行われたりした。食糧生産、備蓄は代官の重要な仕事であったのでジャガイモに着目した。ジャガイモを甲州へ導入した確実な記録は見当らないが、伝えられている所では、甲府代官時代、幕府の許可を得て種芋を九州から取り寄せ、先ず九一色郷の村々に栽培させたといわれています。
 天明4年、清太夫は郡内領を支配するようになり種芋を九一色郷から取り寄せて栽培し、各村に奨励した。結果が良かったので、ジャガイモは甲斐一国に広まり、さらに信濃(長野県)、越後(新潟県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)等まで普及していった。このため、九一色郷などでは、昭和の時代でもジャガイモを、清太夫イモ、清太イモ、せいだ、せーだいも、などと呼んでいた。お助けいも、こうぼういももジャガイモのありがたさから残った名称でしょう。単に芋といえば茨城、神奈川、九州の各県では里芋をさすことが多く、概して列島の西ではサツマイモをさし、北海道、長野、長崎などではジャガイモとして通用します。映画の『いも侍』のいもはサツマイモでした。
 話を元に戻して、上野原町八米の龍泉寺では昭和の初めまで、清太夫を「芋大明神」として祀って、毎年芋祭りを開催していたがいつの間にか絶えてしまった。しかし50年後、檀家総代を委員とする再建委員会ができ、地域住民から寄付を募り、昭和56年10月4日鎌倉建長寺中川貫道管長の書により「芋大明神」の碑と由来碑を建立した。
芋大明神

【詳しくは】
 小林貞夫「神に祀られた芋代官」  郡内研究創刊号 1987

芋司祭「ジャガイモ司祭」

 ジャガイモのヨーロッパへの導入の大波は2度ありました。最初の導入はコンキスタドールがスペインとイタリアへ入れ、『大地のトリュフ Turma de Tierra』と呼んでいた。
 二度目はどこからかわかりませんが、イングランドへ入った。この導入はフランシス・ドレイク卿による、とするのは間違いだとするのが定説となっています。ドイツにはイタリアから入った。そして16世紀末に菜園の植物として扱われていました。
 そしてオーストリアにジャガイモが定着し始めたりは、ヨーロッパにジャガイモが伝わってから約200年も経った18世紀後半のことでした。1761年、今のニーダーエスタライヒ州にあるプリンツェンドルフの教会にオランダからヨハン・エーベルハルト・ユングブルート(Johann Eberhard Jungblut 1720-1795)という司祭が赴任。司祭は故国からもってきたジャガイモを観賞用としてではなく食用として植えた。そしてこれが州全体に広がってゆき、おかげで他の農作物が不作のとき人々が飢饉から救われました。そして19世紀になるとじゃがいもはオーストリア=ハンガリー帝国全体でも欠くことのできない主食になりました。 人びとは、ヨハン・エーベルハルト・ユングブルートさんに敬意をこめて「イモ司祭」と呼びました。そして同国食用ジャガイモ発祥の地となったこのプリンツェンドルフの聖堂区教会に1834になり「ジャガイモ記念碑」を建立しました。

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