ポテトエッセイ第101話
今日ではビタミン欠乏が原因としてよく知られている壊血病や脚気は、かってはその原因が解らない時代がありました。ポルトガルの航海者で探検家バスコ・ダ・ガマが1497年航海に出て、リスボンからアフリカ南岸を経てインドのカルカッタまでの10か月の旅で乗務員160人中100人が壊血病と思われる病で死亡したという。
18世紀のカリブ海を舞台にしたアメリカ映画「真紅の盗賊」で、バート・ランカスターの演ずるバロー船長が、壊血病にかかって漂流していると見せかけて、その船を拾い、最寄りの港まで引いて行うとする船に襲いかかるシーンがありました。羅針盤が発明され、ジャガイモを船に積むことができるようになるまでは無敵の海賊でも当時原因不明の壊血病にはかなわなかったことが知られます。今日壊血病の原因はビタミンC不足にあることが解っています。
ジャガイモ中のビタミンCとされるものはアスコルビン酸ですが、「ア」とはアンチ(抗)の意味があり、「スコルブート」は「壊血病」のことです。17世紀ころから国によりジャガイモ、オレンジ、ライム果汁のどれかを積み込むと壊血病にかからないことが知られてきていました。
一方わが国では、平安時代以降上層階級を中心に発生していたビタミンB1欠乏による脚気が江戸時代以降増える傾向にありました。地方で玄米や雑穀を多く食べていたときは少なかったが、江戸で精米された白米を食べる習慣が広まったためです。地方でも白米ご飯を山盛り3杯に沢庵と味噌汁だけと言うところは脚気(かっけ)になりやすかった。
よく知られるのが「江戸患い」。長期間江戸詰めする武士で罹った者が多くいたが、江戸を離れ故郷に近づくとともに治ってしまうので土地や水が原因とされ、気がめいり、足や膝がだるくなる。顔 はむくみ、食欲がなくなるものでした。脚気は、元禄年間に一般の武士にも発生し、やがて地方に広がり、また文化・文政に町人にも大流行しました。江戸っ子の蕎麦好きはある意味その軽減に役立ったことでしよう。
江戸時代の一五人の将軍のうち一〇代徳川家治(いえはる)・一三代家定・一四代家茂(いえもち)その妻の皇女和宮(孝明天皇の妹)も脚気で死亡したのは有名な話である。出来ることなら現代の刑務所並の食事をさせてあげたかった。豊臣秀吉の死因も日本病跡学会の若林利光さんによると死の直前の約二か月間、下痢を患って狂乱状態に陥っており、将軍家茂の症状と似ており、脚気であったとしている。幕末から明治の日本ではコレラ、結核と並ぶ深刻な病気であった。
脚気( beriberi)は、ビタミンB1(チアミン、オリザニン)の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患です。心不全によって下肢のむくみが、神経障害によって下肢のしびれが起きることから脚気の名で呼ばれる。心臓機能の低下・不全(衝心(しょうしん))を併発したときは、脚気衝心と呼ばれます。
この世に病気を起こす原因の細菌というものがいることを発見したのはドイツのロベルト・コッホで、1876年(明治9年)のことでした。東大医学部を卒業して陸軍軍医となった文豪森 鴎外はドイツ留学の経験があるので脚気も細菌による風土病くらいに考えていたのかも知れません。
いっぽう宮崎出身でイギリスで医学を学んだ高木兼寛(たかきかねひろ)は明治17年(1884)、訓練航海のときに2隻の船の食事内容をそれぞれ和食と洋食にしました。すると、和食のほうには脚気が発生し、洋食のほうには発生しないことをつかみました。以後、海軍では洋食をとりいれ、やがて肉ではなく麦飯がよいことも判明し、以後脚気に悩まされることがなくなりました。
森鴎外はこれを無視し、「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米としました。このため日清戦争では脚気の罹患が深刻な状態でした。それでも鴎外は麦飯導入を拒み続け、1904年には第二軍軍医長となり日露戦争にも参加した。このためこの戦いで陸軍では約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡するという無残なほどの事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていたとそうです。脚気は文字通り脚にきてフラフラになるもので、敵の黒パン大好きで脚気知らずのロシア兵が「日本兵は皆酔っ払っているのか?」と不思議がったそうです。
日本で結核と並ぶほど恐ろしいこの脚気は、ヨーロッパには無い病気なのでアジアの風土病と考えられていた時期がありました。大正末期の年間死亡者2万5千人をこえ、昭和期に入っても日中戦争拡大などで食糧事情が悪化する1938年(昭和13年)まで毎年1万人〜2万人の間で推移したことが知られています。
高木兼寛は男爵になったことから、人びとから「麦飯男爵」と呼ばれ、後に東京慈恵会医科大学となる成医会講習所を開くなど、医学、看護学の発展に寄与しています。