<<長崎オランダ坂 Dec.1998>>
ジャガイモが日本に入ったのは、「長崎誌」によると、1598年(慶長3年)であり、平戸に持ち込まれた。そしてジャガイモの名は、ジャワ島北西部のジャカルタに由来している。当時のジャカルタの名は1527年ころバッタム(バッタン)王国がつけたもので、この改名以前はスンダ・カラッパ Sunda Calappaと呼ばれていた。現住民の主体となっているインドネシア人は、前2,500 年から500 年ころ中国南西地域からインドネシア半島を南下し、東インド(現在のインドネシア)諸島にひろがったもの。ジャガイモはオランダ人が日本にもたらしたが、これより先の1511年ポルトガル人がマラッカを占領し、ジャカルタを中国、日本などとの貿易港として使っていた。1527年ころ西隣のイスラム教徒のバンタム国が占領し、王の一族が統治し、それまでの呼び名スンダ・カラッパ(民族名スンダ+土語カラッパ)からジャカルタに変更した。しかし、ポルトガル人などのヨーロッパ人は、これをなまってジャカタラJacatra 、Djakatraと呼んだ。また、カラッパの名も残って、明朝が1589(万暦17)年、南洋各地88地の渡航船に与えた渡航許可証のあて先に“咬 ロ留 ロ巴”とあるのは、この音にあてた漢字で、後年略してロ巴域とも書いて使われた。
ポルトガル人が種子島に漂着したのは1543(天文12)年であり、16世紀末ごろから、オランダ船も貿易に来航するようになった。1602年東インド会社が設立された。1611年にジャカルタの土地を買収して商売の館を設け、貿易を定期的に営んでから、町がしだいに発展していった。1619年にいたり来襲したイギリス軍を撃退し、ジャカルタの南方に町を新設してオランダ人南方経路の拠点とし、城の改築、拡大も行った。
この1619年東インド会社の命によって、町と城とをオランダ民族名にちなんでバタビア Bataviaと命名し、1621年8月以来これを公称とした。この後19世紀の始め一時イギリスに制圧されたこともあったが、300年間オランダの植民地となっていた。
江戸時代初期には、オランダが兵力と労力の補充に平戸から日本人を数十人単位でジャカルタに送りだし、1630年代までに常時100人前後の日本人が住んでいた。1632年11月の外来移民数は 8,058人で、オランダ人 2,368人、日本人83人、中国人2,390 人という記録があります。
なお、島原の乱が起きたのは1637(寛永14)年で、翌年幕府が切支丹宗を禁じ、改宗に応じない人を長崎から追放した。この中に「お春」という少女もいた。
1905年オランダは、これまでのバタビアに、ウエルトクレデン、タンジョン・プリオなどをまとめて新しいバタビア市とした。
1949(昭和24)年、インドネシア共和国が独立したとき、ジャカルタと旧名にもどし、首都とした。ジャヤは幸福繁栄、カルタは都の意味である。
浅間和夫 ジャカルタの変遷について.『ポテト サイエンス』Vol.10,No2/1 p.43-44より