ジャガイモの出てくる 映 画  第15集

浅間和夫

151.『旅するダンボール』
2018年、邦画。監督:岡島龍介。
島津冬樹。いま(2018年)世界が最も注目をあつめる話題の"段ボールアーティスト"である。本人は自身を段ボールピッカーとも呼ぶ。この映画は、彼の活動に迫るドキュメンタリー作品である。
 役目を終えると捨てられてしまう段ボール。しかし市場などでよく見てみると美味しさを上手に表現していたり、ダサいものだったりと豊富なデザインがあり、底がこすれて長旅を想像できたり、国ごとの文字の違いなど、奥深い点がたくさんある。
 映画は、ある日東京で、島津かわいらしいキャラクターの徳之島産のジャガイモの段ボールを見つける。その源流を辿って行く旅の途中で出会う、この段ボールと人たちとの温かい交流を3年間にわたり追ったもの。そして段ボールが導く人との縁や、ゴミと呼ばれるものを使用価値のあるものへと昇華させる活動の裏側に迫る。
 今まで世界30ヶ国の街角で捨てられた段ボールを拾って、デザイン、機能性を兼ね備えた段ボール財布へと甦らせてきた。必要とされなくなった段ボールをデザインと機能性を兼ね備えた財布に変えた作品例も見られた。
 こうして島津が生み出す段ボール財布は世界中を旅し、リサイクルや再利用といった概念のさらに先を行くアップサイクルの可能性として受け入れられているが、島津の思いはソーシャルな反応とは無関係に、ただひたすら段ボールが好きで多様性や魅力の虜になった、純粋さそのものであった。

152.『最後の晩餐(ばんさん)』 (原題:分手合約)
2013年、中国、韓国合作映画。 監督:呉基桓(オ・ギファン)(韓国)。
『ラスト・プレゼント』などで知られるオ・ギファン監督による中国韓国合作のラブストーリー。
原題の“分手”の意味が「別れる」という意味であり、“合約”の意味が「合同」と同じ「契約」であるから原題は“別離契約”となる。近時は婚姻届を出すと同時に離婚する場合の条件を定めた「離婚契約」を交わすことがあるようだが。
あらすじは、陶芸家を志す彼女リー・シン(中国女優バイ・バイホー)と三つ星シェフになろうと奮起する彼チャオチャオ(台湾の人気俳優エディ・ポン)が幸せな日々がずっと続くと考え、結婚の約束もする二人だったが、お互いの夢をかなえるために5年間だけ別れるという別離契約を交わし、行きつけのカフェのマスターに預けることとした。
 男の方は「君が作る器に僕の作るトマトとジャガイモと干し筍(たけのこ)のスープを」と考えて彼は北京へと渡って料理修行を始め、彼女も上海に飛んで陶芸の腕を磨くことにした。
5年間の努力の甲斐あって、今チャオチャオは上海で食器デザイナーとして独立し、北京で個展を開くまでになっていた。他方、リー・シンは今や3つ星レストランのイケメンシェフとなっていたうえ、中国版の『料理の鉄人』のようなテレビ番組の決勝戦4人枠に入るほどの有名人に。互いにここまで自分の夢を実現できたら、2人のゴールイン=結婚はすぐ間近。リー・シンはもちろん、観客はみんなそう思ったはずだが・・・。
 それから5年後の契約解除を迎えた日、彼から「結婚式に出てほしい」という電話が彼女のもとにかかってくる。想像もしていなかった彼の言葉に、打ちひしがれそうになる彼女だったが・・・。
 二人の新居からウエディングドレスの試着まで付き合わされたチャオチャオは、決定的な敗北感を味わわされたが、何とこれがすべて再度のプロポーズをチャオチャオから断られないためのテストであり、友人チョウ・ルイの協力を得たうえでの世紀の大芝居だった。
 チャオチャオは今、リー・シンからの心からの二度目のプロポーズを聞き、その幸せ度は最高潮。その幸せをすぐにマオマオに電話で伝えていたが、そこで急に咳き込むと、手のひらには結核のような血が・・・
切なくもロマンチックなストーリーもさることながら、物語のキーとなるスープをはじめとした料理の数々も見どころ。

153.『コロニア』 (原題:COLONIA)
2015年、ドイツ、ルクセンブルク、フランス合作。 監督:フローリアン・ガレンベルガー
スリラー映画であるが、チリ・クーデターの際の実話を基にしたものであり、ピノチェト軍事独裁政権下でナチスの残党パウル・シェーファーと結びついた拷問施設「コロニア・ディグニダ」(尊厳のコロニー、後のビジャ・バビエラ)の実態を描いた作品。2枚万8千人が拷問を受け、約3千人が殺害されたという。
 1973年、ルフトハンザ航空の客室乗務員のレナ(エマ・ワトソン)はフライトでチリにやって来た。街を見て回っていると恋人でジャーナリストのダニエル(ダニエル・ブリュール)がデモに参加しているのを見かける。折しも軍事クーデターが勃発、ダニエルが反体制分子として捕らえられてしまう。
 ダニエルが収容された「コロニア・ディグニダ」は、表向きは農業コミュニティだが、実態はピノチェト軍事独裁政権と結びついた拷問施設になっていた。
ドイツのルフトハンザ社キャビン・アテンダントのエリートで頭のいい秀才であるハーマイオニーが泥だらけになり、じゃがいもを掘っている姿(写真)も見られる。
 ダニエルも日夜を問わず拷問を受ける日々であったが、自身が拷問により頭がおかしくなったフリをして脱出の機会をうかがっていた。
レナは仲間にダニエルを助けることを提案するが、取り合ってもらえない。そのため、単身命がけで「コロニア・ディグニダ」に潜入する。
 道沿いでリムジンに乗ってくる大統領を待っているとレナはダニエルを見つける。二人は互いに手を握り合い、夜に食料倉庫で待ち合わせの約束をする。 レナが一所懸命ジャガイモの皮を剥いているところに、ダニエルがやってくる。二人は涙の再会を果たし抱き合ってからダニエルは「巻き込んで申し訳ない」と謝罪する。ダニエルがこれまでの経緯を語った後、地下に降りていく隠し扉があることに気付き下りていくと自分が拷問をうけた場所と知る。 逃げて大使館にたどりつくものの、シェーファーと繋がっており、監禁される。しかし二人は監禁部屋から脱出して空港へと・・・。

154.『天国の約束』 (原題:TWO BITS)
1995年、アメリカ 監督:ジェームズ・フォーリー。
 大恐慌時代のアメリカの田舎町を舞台に、少年と祖父の心温まる交流をノスタルジックに描いた感動作。少年役のジェリー・バローンは全米から集まった730人のオーディションから選ばれた。
不況時代の1933年、南フィラデルフィア。12歳のジェンナーロ(ジェリー・バローン)は、新装の映画館〈ラ・パロマ〉に入場するための25セントが欲しくて仕方がない。
 自宅の裏庭で毎日座って暮らしている祖父ガエタノ(アル・パチーノ)は、死を予感している。自分が死んだら25セントやるという約束をジェンナーロと立てていたが、ジェンナーロは大好きな祖父に死んでもらいたくない。 苦しい家計を一人で支えている母ルイザ(メアリー・エリザベス・マストラントニオ)に頼んでも無駄であった。祖父に長生きしてほしいと考え、町で働くことにした。
 そこで自分で稼ぐことを決意する。その過程で少年は、貧困にあえぐ中年女性がジャガイモを盗む現場と遭遇したり、ブルーナ医師の妻から誘惑されたあげく彼女の首吊り死体を発見するというショッキングな出来事を体験したりする。
 やがて祖父の容態が悪くなり、ジェンナーロは彼を見舞いに裏庭へ行く。そして祖父が静かに息を引き取ると、彼の手から25セント硬貨が転げ落ちてくる。ジェンナーロをそれを持って、憧れの<ラ・パロマ>に入って行くのだった。
原題の「Two Bits」は英語で25セントを表す言葉であり、この映画に出てくる映画館の入場料を示している。

155.『運動靴と赤い金魚』 (英語題: CHILDREN OF HEAVEN)
冒頭、少年アリ君がすでにボロボロのピンクの靴を修理屋で修理してもらうシーンがある。実は小学校1年の可愛い妹ザーラちゃんのものだった。靴を受け取り、八百屋さんに行く。ジャガイモを買おうとするが、ツケが溜まっているらしく小さいジャガイモしか売ってくれない。アリは靴をいれた黒いポリ袋を木箱の間に押しこみ、ジャガイモをよりわけはじめる。そこへ屑屋の爺さんがやってきて、空箱を乗せる時に靴を持って行ってしまう。アリは妹の靴がなくなったことに気がつき、探そうとして木箱を崩し、八百屋に追い払われる。
 帰宅すると、妹に尋ねられる、「私の靴は?」ザーラにワケを話すけれど、貧しい親には言えない。ザーラは「明日からどうやって学校に行くの?」と尋ねる。イランの学校は男と女で場所も時間も違うため、アリの提案で一つの運動靴で交代で学校に行くことにする。アリはその靴を履いて学校へ...走って行くのだが、どうしても遅刻してしまうので先生には叱られるのだった。
 ある日の朝礼の時、ザーラは自分のピンクの靴を下級生が履いているのを見つける。そして、アリとザーラはその家を覗いてみると子供の父親が盲目であった。何も言えず引き帰す。二人の家はもっと貧しく、家賃も滞納している暮らしながら、家族は慈しみ合い、他人への優しさを忘れていなかったのだ。欲しいものは揃っており、少し古くなると、どこかに捨ててきて新しい自転車を買ってもらうどこかの国の子に見せたい映画である。
ある日、ザーラは、アリがテストで満点を取った時の御褒美のペンをもらって大事に使う。また、マラソン大会の3等の賞品が運動靴と知ったアリ少年は、無理やり先生に頼んでその大会に出場し、3等賞を狙う。(写真)しかし優勝してしまう。池に座ってマラソンで疲れた足を冷やす。その足にはところどころ豆ができていた。腫れた足の周りに寄ってくる金魚は兄を慈しみ、忘れ得ぬシーンを作り出す。赤い金魚は幸せの象徴であった...。
 子供たちの父親はトルコ系という設定であり、イランではトルコ系は貧しいが、頑固で、宗教心が厚いという。モントリオール世界映画祭でグランプリを含む4部門を受賞したこの映画は大人も子供も一緒に見るによいものである。この映画は、イランでは中止やカットされることなく、学校で無料で見ることができるが、一般映画は性的描写はもちろん、女性の髪にいたるまで検閲されるようである。

156.『こうのとり、たちずさんで』 (原題: To Meteoro Vima tou Pelargou,英題:The Suspended Step of the Stork)
1991年 、ギリシャ映画。監督:テオ・アンゲロプロス。
 原題は「こうのとりの宙吊りになった歩み」というような意味らしい。渡り鳥には国境はない。しかし、舞台となったギリシャ北部のフロリナという土地は、アルバニア、マケドニアとギリシャの3つの国の国境地帯でありいろいろな民族、難民が国境を越えて行き来している。
 TVリポーターのアレクサンドロス(グレゴリー・カー)が国境の難民取材に訪れ、ジャガイモ売りの初老の「男」(マルチェロ・マストロヤンニ)が、かつて失踪した「大物政治家」と同一人物ではないかと思い、調べ始める。「大物政治家」の夫人(ジャンヌ・モロー)は、当初取材協力を断るが、のちに、失踪前に留守番電話に残された夫の最後の言葉に何かを感じてテープを持って現れる。
 その後、夫人が国境の町までやってきて、そのジャガイモ売りの男と会う(写真)。しかし、TV局クルーによって撮影されたモニターに、「違う。彼じゃないわ」とつぶやき、このジャガイモ売りの男が、失踪した大物政治家だったのか、アルバニアから亡命してきた別の男だったのか、映画でははっきりさせてくれない。
 取材し続けるアレクサンドロスは、ある夜、ホテルのバーで身じろぎもせず自分を見つめている少女(ドーラ・クリシクー)に気づき、運命的に愛を交わす。彼は彼女と再びカフェで出会い、後を追って共同住宅の一室に入ると、電線工事の仕事から帰ってきた少女の父が取材中のジャガイモ売り男だったので驚く。
 アレクサンドロスが夫人から預かった、テープの声を男に聞かせると、男はテープの続きを静かに語り出す。やがて町は集会の前祝いで沸き返る。アルバニアから村の半分の人々が難民として越境して来たために、河を隔てて年に一度お互いの無事を確かめ合おうという儀式があるのだ。おまけに今年は結婚式も重なっていた。黒い人影がたくさん無言で現れ、その群れから、一人の花婿が現れる。そして、こちら側には花嫁と村人たち、神父が自転車で現れ、結婚式が無言のうちに行われる。そして、遠くで聞える銃声とともに一斉にいなくなる村人たち。再び現れる花婿と花嫁…。結局、この娘も何だったのかも明らかにされない。すべてがあいまいに宙づりにされたまま、こうのとりが国境線で足をあげたまま踏み出せないように。
 ジャガイモ売りの謎の男は、国境付近で、またしても行方をくらます。彼を最後に見た男の子が言う。「河の上を歩いていったよ」と。男は何者だったのか?謎は謎のままで終わる。
写真:タイトルとなった橋の上に書かれた国境線の上に片足で立つ案内役の大佐(イリアス・ロゴテティス)の姿。ただの線であるが、一歩越えれば 撃たれ死ぬ。

157.『地下室の怪』 (原題:Do Pivnice)
1983年、チェコスロヴァキア。監督: ヤン・シュヴァンクマイエル。  監督は1934年生まれの男性であるが、自分の作成した映画のなかではもっとも自伝的であると自ら語っている。幼いころ地下室に石炭やジャガイモを取りに行った経験がある。この短編では自分を少女(モニカ・ベロー・カヴァノヴァ)に置き換えて、暗いところで何となく不気味さ、怖さ。不可解さを感じたことを創作に昇華させた。
 少女は地下室にジャガイモを取に降りていと、少女が落としたパンを足元の靴たちがむさぼりつく、シャベルが勝手に1人でに石炭を掬い集める。少女が石炭のベッドで休もうとしていると、変な男が石炭ベッドに誘う、すぐ後ろには老婆がいて、石炭の粉と卵を練り合わせて焼いて作ったケーキらしきものを少女に勧める。
 目的のジャガイモが置いてある部屋に行って、でジャガイモを籠に入れていくのだが、ちょっと目を離せば、そのジャガイモ達はあっという間に勝手に元の場所に戻っていってしまう。なんとか頑張ってジャガイモを籠に詰めて、大急ぎで出口に向かうのだが、今度は大きな黒猫が一匹隣を並走する。
 ようやく出口の階段までたどり着いたものの、黒猫につまづかされてせっかく集めたジャガイモは全部籠から転げ落ちて、元の暗い場所へと消えてしまう。子供にとって、墓場、校舎、神社、仏閣、祭りのお化け屋敷だって、ノスタルジックなから恐ろしく閉塞した感じを味会う場所だったたりするものだ。

158.『トンマッコルへようこそ(邦題)』
2005年、韓国。監 督 パク・クァンヒョン。
 舞台は1950年代、朝鮮のトンマッコル(“子供のように純粋な村”という意味)の人々は、いつも笑顔を絶やさず、自然と共に暮らし、朝鮮戦争のことも知らない。
 この山奥に3組の異邦人がやってくる。墜落した戦闘機に乗っていた連合軍のアメリカ人兵士スミス、韓国軍の脱走兵ピョ・ヒョンチョルとムン・サンサン、北の人民軍の残党リ・スファ,チャン・ヨンヒ,ソ・テッキの6名だ。
 銃を突きつけて敵対する彼等を横目に村人達はのんびりムード。兵士達は村人に銃を向けて「貴様らはどっちの味方だ」と迫るが、村人は銃も手榴弾も見たことがなかったので、「それは何?」と尋ねる始末。まるでお伽話か、昔話のよう。村人はジャガイモの収穫を心配し、収穫間近の畑をイノシシに荒らされようと、誰の口からも「退治しよう」という言葉はでてこない。
 南北兵士の小競り合いの中、村の食料貯蔵庫を爆破してしまい、謝罪のため野良仕事を手伝うようになる。
 当初南北の兵士は畑にいても“いつ相手が襲ってくるかわからん”と、互いに警戒していがみ合うが、額に汗してジャガイモを収穫しているうちに、だんだん憎み合うことが馬鹿々しいと感じてくる。
 ついに両軍の兵士が協力。村祭りで酒を呑み、歌い踊り、敵対心が友情に変わっていく。村人から「今度の戦争はどこが攻めてきたんだ?中国か?日本か?」と問われて“同じ朝鮮人で殺し合いをしている”と言えず、黙ってしまう。そんなシーンもある。
 連合軍の爆撃目標となった村を救うために、南北の兵士は一緒に自ら“おとり部隊”となって陽動作戦をする。「自分達の死=作戦成功」という悲しすぎる運命にもかかわらず、頭上から降り注ぐ爆弾を見て「やった!成功だ!」とニッコリ笑顔をかわすラストがなまらよい。出会った当初の敵意むき出しの姿からは想像もつかないほど、深い友情で結ばれていた。

159.『ぼくの神様』 (原題:Edges ot the Lord )
 2001年、アメリカ。監督:ユレク・ボガエヴィッチ。
 1942年、ナチスが猛威を振るったポーランドを舞台。11歳のユダヤ人少年ロメック(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の父親は、ユダヤ人の強制連行が激しいクラクフからポーランド東部の小さな村に連れて行こう考える。ロメックに必死でカソリックの祈りの文句を教え、ユダヤ人であることを隠蔽する知恵をつけようとする。「教授」と父のことを呼ぶその農夫グニチオ(オラフ・ルバスゼンコ)に会うと、担いできた布袋のなかのジャガイモを床にまく。
「教授、急がないと」、時間が切迫しているのだ。ロメックは、ジャガイモの袋に隠され、グニチオの馬車でポーランド東部の小村に向かう。袋越しに外を見るロメックの目に、無慈悲にピストルで市民を殺すナチの姿が見えた。その騒ぎのおかげで、ロメックは、検問で厳しいチェックをまぬがれる。
 ロメックを預かった農夫グニチオには、ふたりの息子がいた。年の近い兄のヴラデック(リチャード・バーネル)はロメックを嫌ったが、弟の小さなトロ(リアム・ヘス)はロメックを慕い好意的だ。
神父は、少年がユダヤ人であることを偽り、カトリックに偽装することを許してくれた。原題の「エッジ・オブ・ザ・ロード(神のヘリ)」とは、カソリックの「聖餐」(communion)の式で神父が信者の口にいれてくれるせんべいのような「聖体」(corpus christi)(キリストの体)を鋳型でくり貫いた残りの部分のこと。聖体を拝受される者よりも、「エッジ」をもらう者のほうがより人間的である証であるということなのかも。
美しい自然に囲まれ、村の少年たちと楽しい毎日を過ごすのだった。しかし村にもナチスの軍靴が迫ってきた。
 キリストがユダヤ人だったことを知っている彼等が慕う神父(「プラトーン」に出演のウィレム・デフォー)が、12使徒の気持ちを理解させるため神父が提案したゲームでトロが自分がキリストになると言って奇妙な行動を取り始める。
 禁止されている豚を飼っていたグニチオが殺される。その頃、ユダヤ人を強制収容所へと移送する列車が村を走り、多くのユダヤ人たちが列車から飛び降りて逃げようとしていた。ロメックは、自分がユダヤ人ではないことを証明するため、ナチスの将校の前でユダヤ人たちを辱める。そこにトロが現れ、ロメックが自分の友人だという声を否定し、収容所行きの列車に乗せられてしまう。青年になったロメックは、トロのこと、そして自分を救った人々のことを忘れないと心に誓うのだった...<2018.12.4>

160.『月の輝く夜に』 (原題:MOONSTRUCK )
 1987年、アメリカ。監督:ノーマン・ジュイソン。
 冒頭はニューヨーク。夜景を背景に、『ナポリは愛に包まれた街、恋する二人の夢見る街、瞳に映るのはピザのような月、恋の魔力、ワインの人生・・・』と、デーン・マーティンの「ザッツ・アモーレ」が、魅惑的に流れる。メトロポリタン・オペラハウスとプッチーニの「ラ・ボエーム」の看板が映し出され、イタリアン風味たっぷりに映画の幕が開く。さよう、イタリア系は陽気で惚れやすいと言われるので、何かを期待したくなる雰囲気である。
 7年前に夫と死別して独身生活を送っていたロレッタ・カストリーニ(シェール)に幼なじみのジョニーが突然プロポーズする。そのジョニーが危篤の母にあい、結婚を説得するためシチリア島パレルモに帰郷する。ロレッタはフィアンセの弟ロニー(N・ケイジ)に結婚式への出席を頼むためアパーに行くのだが、彼の左手は義手である。兄貴のせいでこうなったという剣幕に驚いてロレッタは彼の話を聞く。そしてベットを共にしてしまう。
 別れなければならない二人。ロニーは楽しみにしていた『ラ・ボエーム』を彼女と観ることで、この恋に終止符を打とうと考える。待ち合わせ場所は歌劇場の噴水の前。ロニーの前に現れたロレッタは最後のデートのために髪を染め、眉を整え、メイクも完璧でくる。真っ赤なドレスを優雅に着こなし、赤い靴でピタリと決めたロレッタの姿にロニーは一瞬目を疑い、「綺麗だ」と感嘆する。
 満月の夜、同じ劇場のロビーでは父コズモが若い女とおり、母のローズは大学教授のペリーと意気投合し、同席で食事を楽しむ。そしてロレッタとロニーは、オペラ観賞の後、酒をくみかわすうちに名残惜しくなり、再びロニーのアパートへと向かう始末。月が煌々と輝く夜に、三者三様の恋が進行する。原題のムーンストラックは狂気と訳されることもあるが、森井陽一は"月に打たれて、普段とは違う夢見心地になること"とでも訳すべきだろうと書いている。
 このメトロポリタン歌劇場内のシャンデリアは、1966年に納品されていたものである。アメリカからの要請でロブマイヤーの4代目ハンス・ハラルト・ラートにより完成した最高傑作と言われているものだ。彼がシャンデリアの模型を作るため試行錯誤の後、集めてきたのがジャガイモと自転車の放射状スポーク。写真はそのドローイングであるが、ジャガイモ好きにはひと目でわかる。 <2018.12.5>


http://potato-museum.jrt.gr.jp/cinema15.html ジャガイモ博物館。ジャガイモと映画 15

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