ポテトエッセイ第25話

大切な遺伝資源
【ジャガイモ博物館】

【写真:ジャガイモ野生種コンメルゾニ】  ジャガイモの原産地は、その名から想像されるジャカトラ(現ジャカルタ)ではなく、南米アンデスの高地でした。ジャガイモは、そのアンデスから、スペインなどを廻り、日本の野菜の中では1番長い旅をして渡来しました。ジャワには多分ポルトガルかオランダ人によりペインから運ばれました。遡ってスペインには、コロンブスの西インド諸島発見以降にインカ帝国を征服した兵士たちにより持ち込まれました。
 この時ヨーロッパに入ったのはジャガイモ仲間のうちの1種でしたが、ジャガイモには沢山の近縁種があります。普通の多収なツベロスム亜種は4倍体ですが、デミッスムというカビにかかりにくい6倍体や、インデオが栽培している2倍体ジャガイモなどもあります。
 1925年から1933年の間にソ連のニコライ・バビロフ(Nikolai Ivanovich Vavilov)はレーニンの援助を得て、ブカソフやジュゼプチュクという人を、世界の栽培植物の探検収集に送り出しました。南米では、18の栽培種と数10の野生ジャガイモを発見しました。その中には、後に2人の名前をつけたのもあります。南米でみたジャガイモはいずれも可憐な花をつけた高山植物でしたが、イモは私どもが今スーパーなどで入手できるものより小さいものでした。また、野生種の中には、かびや細菌、あるいは霜に強かったり、蛋白(たんぱく)質や澱粉が多かったり、それぞれ特徴に違いがありました。
バビロフは、遺伝資源を世界から集めた成果に基づき、遺伝的多様性が高い地域がその作物の発祥地であると考え、栽培植物の起原についての理論を発展させた。さらに当時では世界最大の植物種子コレクションを創設した。
 ジャガイモの品種改良は、通常食べる部分が大きく、目のくぼみが浅く、イモが親株の近くにまとまって着き、調理加工に合うものをねらって行われます。その仕事には、いろいろな病気に対する抵抗性など、いつか役に立つ有用な遺伝子を持つ近縁種をたくさん持っていることが重要です。消費者や農家の望む形質を野生種などから取り込んで改良を重ねていますが、少し世の中が変わると別の有用遺伝子が求められるので(たとえば、北海道にジャガイモシストセンチュウが発生すると、その抵抗性遺伝子が求められた)、多様な近縁種の保存が重要です。 この重要性を示すエピソードがります。
 食べ物が不足した第二次世界大戦の時、ペトログラード(レニングラード、現サンクトペテルブルク)のバビロフ研究所のある研究員は、南米から持ってきた遺伝子保存用のジャガイモが貯蔵庫にあるのに、その種イモには手をつけることなく餓死したといいます。
 スターリンの時代となり、メンデル遺伝を否定するトロフィム・ルイセンコが政治的に勢力を拡大してきて、バビロフを排撃するようになり、バビロフは1940年ついに「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕され、1943年にサラトフ監獄で栄養失調のため死去した。ルイセンコはエンドウ豆を冷水に漬けておくと冷害抵抗性がつき、次の世代に遺伝する、などと言う駄目な科学者でした。
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