ポテトエッセイ第114話

ジャガイモを守って餓死した男 【ジャガイモ博物館】


 北朝鮮の話ではありません。ソ連での話。レーニンからスターリン統治時代にかけて優れた植物遺伝育種学者Nikolai Vavilov ニコライ・ヴァヴィロフ(日本ではパビロフとも書かれます)がいました。若かりし頃、「遺伝学(genetics)」という用語を最初に唱えたイギリス人学者ウィリアム・ベイトソン(William Bateson)にも師事したことがあります。
 メンデルの法則が再発見されてまもないころでしたが、ソ連を世界の食料供給基地とし、飢餓の撲滅を図るにはその遺伝学の知識を活用しての作物の品種改良(育種breeding)が重要と考えました。そして温度などのより厳しい環境でも育つことができるものとか、病害虫に対する抵抗性のある作物品種をつくりたい、と世界各地に遺伝資源を求めました。
1917年のロシア革命で権力を掌握したレーニンは、彼の壮大な構想に理解を示し、研究を支えました。1921年、ペトログラード(レニングラード、現サンクトペテルブルク)の応用植物学研究所(のちに連邦植物栽培研究所)所長となって活躍。1926年レーニン賞を受賞。さらに1930年代にはモスクワのソビエト科学アカデミー遺伝学研究所所長などの要職を兼ね、ソビエトの作物改良研究の責任者となりました。
 彼は食糧の安定確保のためにも多様な遺伝資源を確保することが肝要であると考え、1920年代に世界各地を巡り、農作物の紀原の研究にも努めました、この知見から遺伝的多様性が高い地域がその作物の発祥地であると考え、栽培植物の起原についての理論を発展させました。そして当時としては世界最大の植物種子コレクションを創設しました。(1929年には来日し、北大の明峰正夫、京大のコムギゲノムの研究で有名な木原均、九大の盛永俊太郎を訪ね交流しています)

 しかし残念なことに1924年にレーニンが死去し、スターリンの時代となります。1930年代に、メンデル遺伝を政治的に否定し、環境よってもたらされる獲得形質は遺伝するとするエセ科学者トロフィム・ルイセンコ(Trofim Lysenko)が勢力を拡大し、それに真っ向から反するヴァヴィロフの学説を排撃するようになります。
 1930年にソ連を襲った大飢饉に際してスターリンはスケープゴートを探せと秘密警察に命令します。これによって多く学者が逮捕され投獄、さらには処刑されました。ヴァヴィロフはこの植物育種学者を対象にしたリストに載った人物の1人でした。
 1933年からソ連農業の妨害容疑で同僚の逮捕が始まります。しかしヴァヴィロフは科学界にまで及ぶスターリンの圧政に対しても遺伝学の正しさをねじ曲げませんでした。このため、ついに1940年「ブルジョア的エセ科学者」のレッテルを貼られてしまいソ連農業妨害罪、ソ連に対する反逆罪で逮捕され、1943年にサラトフ監獄で栄養失調により死去してしまいました。
 1940年(昭和15年)9月日本、ドイツ、イタリアの間で日独伊三国間条約が結ばれ、翌年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で 独ソ戦がおきました。
 この戦に際してドイツ軍が占領した地域(主にクリミアとウクライナ)の研究施設に保管されていたヴァヴィロフが収集した遺伝資源コレクションは、オーストリアのグラーツ郊外のナチス親衛隊の研究所に運び去られることになりました。しかし、コレクションの中核となるレニングラードに保管されていたものは、レニングラード包囲戦にもかかわらず影響を受けないですみました。その裏には、餓えにあっても大切なジャガイモ標本芋をごまかして食べることなく、守りながら自らは餓死した研究員がおりました。そのころのロシア人を知る人にとって意外すぎる話なので、世界に知られました。


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