蛇足みたいなものですが、イギリスの航海者フランシス・ドレイク(1545?〜1596年)という説があります。
1586年に、南米のキトーから持ち帰り、イングランドのヤングホルで試作し、「ポテト・アップル」と呼んで近所の人に分譲したのが普及の始まりだというものです。しかし、ドレイクの船「ペリカン号」にジャガイモが積み込まれていたという証拠はまだ見つかっていません。
それでも、ドイツのオッフェンバッハ(フランクフルト東方の工業都市)の人達は、ジャガイモをヨーロッパに持ち込んだことに感謝し、ドレイクを讃える像を建てました。ドレイクは、1580年イギリス人では初めて世界周航をなしとけた人であり、海賊王とも呼ばれ、食卓の食器はもちろん、調理部屋のものまで純銀製を使っていて、船中にオーケストラまで引き連れたことも知られています。蛇足ながら、我々がよく使うボーナスという言葉は、スペインの無敵艦隊を破った彼に、エリザベス女王が戦利品の半分を与えたときに初めて使われたものだそうです。
一五八六年の夏、イギリスにタバコと喫煙具をイギリスにもたらしことのほうが有名です。
ジャガイモの価値が人々に知られたころ、アンドレアス・フリードリッヒという彫刻家がドレイクのジャガイモ普及上の多大の功績をたたえて記念碑を建てることにしました。しかし、シュトラースブルク市の長老たちは彼の功績には前述のように疑いがある、としてその彫刻の寄贈を喜びませんでした。そこでその彫刻家は、一つの条件をつけてバーデンに近いオッフェンバッハ市に寄贈することにしました。その条件とは、シュトラースブルク市の方に対して背中(尻)を向けるというものであした。こうして今ドレイクはジャガイモの花を左手にもって立ってます。
【左 ローリー】 もう一つ、ウオルター・ローリー(1552〜1618年)だ、というのがあります。軍人で、海洋探検家で、詩人でもある彼がバージニア(現カロライナ州)のインデアンが栽培しているジャガイモをイングランドに持ち込んだというものです。しかしこの説も、当時のアメリカインデアンは、サツマイモはつくっていたが、ジャガイモを栽培していなかったこと、また、彼自身バージニアへの移民船には乗っていないことから、事実ではないとされています。
しかし、1596年にロンドンの彼の庭園にジャガイモが植えられていたのは事実でありました。すなわち、1693年の秋の王立協会の会合で、会長のサー・ロバート・サウスウエルが発表した議事録によりますと、アイルランドにジャガイモを伝えた彼の祖父がそれをローリーから譲り受けたものだと述べていることでも明かです。
ローリーは、1580年アイルランドの反乱を鎮圧してエリザベス一世の信任を得、ナイトに叙せられました。フロリダ北部を女王にちなみバージニアと名づけ、植民地化をはかりましたが、こちらは実を結びませんでした。しかし、帰国の際、本国にタバコを伝えてました。
ローリーが自宅でインデアンが使用する長いキセル付きのパイプ(現地人はこれを回しのみするので平和のパイプと呼んだ)でそっと喫煙していると、煙草を知らない召使いが主人の体が火事になっていると思い、慌てて大ジョッキのビールを頭にかけたという話もあります。
ローリーは、ぬかるみで困っている女王をみて、高価な自分のマントを脱いで女王をお通ししたという伝説もあり、ジャガイモを使った珍しい料理を献じたこともあったそうです。
イングランドのシドマスで栽培し、その葉をサラダに使い、その一部をエリザベス女王に献上したところ、女王はソラニン中毒にかかって大いに苦しみ、大目玉を喰ったこともあったそうです。また、エリザベスに献上したお菓子第一号はジョン・フイードリングによるもので、ジャガイモをナツメグとシナモンで味付けしてバラ水で溶かした砂糖を刷毛で塗り、天火で焼きあげたものだったといいます。女王は「えっ、根ですって」と、始めはいぶかったが、食べてから味を賞賛しました。
ローリーは、アイルランドのコーク州ユーハルのメーノー・ハウスにある自分の領地でジャガイモを栽培しました。その中からいくつかの種イモをもらった庭師は、自分も植えてみました。花の散ったあとそこに実(漿果、果実、ベリー)がなった。当時はトマトを珍しい植物として鉢植えし、鑑賞していた時代であったので、彼はきっとその実を食べるものだと思い込んだようです。
その実を試食したあと、「あなたの勧めたジャガイモはとても食べられません」と、ローリーのところへ持ち込んできました。ローリーは、「そんなものは掘り取って捨ててみなさい」と教えました。そこで庭師が捨ててやろうと、土を掘りかえしてみたところ、いもがゴロゴロでてきたので、これを試しに煮て食べてみたところ、その味の良さに改めて驚いてしまいました。
ジャガイモのイギリス諸島への導入については、このように幾つかの説がありますが、アイルランドではローリーが入れたとされ、飢饉の際などに、『ローリーの運命の贈物』などと言われ感謝されました。これに対しドイツではドレイクがジャガイモをヨーロッパに導入した恩人と考えて、前に述べたような像を建てています。
イングランドでのジャガイモの普及はアイルランドより遅れました。アイルランドはもちろん、ほかでもジャガイモは初めのうちは、人びとはなかなか受け入れませんでした。1633年、王立協会が救荒作物として奨励するなどの努力を重ねてても、一般への普及は18世紀中〜末ころまでは遅々として進みませんでした。特にスコットランドの人びとは、ジャガイモの名は聖書にも出てこないから、罪深く、汚れた食べ物であると信じていました。今日のイギリスでは、日本で言えばお米に相当する位置を得ています。ブレッドよりもポテイトウズであり、食堂のメニューをみてもジャガイモはベジタブルの中に一括されずにポテイトウズと、独立しています。
シエクスピアのいたころのエリザベス朝の貴族は猟などもできる田舎ぐらしを好み、街は商人たちが幅を効かせていました。周囲2メートルほどの店で、ある日はビーツやラデッシュの根菜を売り、その翌日は魚、その後はハーブ、果物と日ごとに変えたりしていました。行商人や定料理の店もありました。多くは家庭菜園をもち、「女性は自分で野菜を栽培しなければならない」(1615年刊『イングランドの主婦』)とされ、古くからのリーキ、根菜、豆類、カボチャ、ホウレンソウ、キャベツ、サラタ菜などがつくられていました。ジャガイモなどの新大陸産の食べ物はジョン・ジェラードは16世紀末からつくっていたが、一般には17世紀に入ってから家庭菜園でみられるようになりました。
貴族など上流の者は肉類を好み、魚に比べ鹿肉などの肉類を多く摂るようになった
ものの、野菜不足で壊血病に罹ったり、その兆候を呈すものも出てきまた。つまり、キベット女史の研究ではヘンリー八世が壊血病になっており、メアリー一世、エリザベス一世、ウルジー枢機卿、ジェームズ六世にはその徴候が見られるそうです。17世紀のイギリス菜園には、そのころの温室や温床の発達があったことから、『愛のりんご』ことトマトもつくられるようになっていきました。