ポテトエッセイ第7話

川田男爵【ジャガイモ博物館】

 川田龍吉(かわだりょうきち)は、安政3年(1856年)四国の土佐郡(現高知市旭元町)で、郷士川田小一郎、妻美津の長男として生まれました。15歳のとき岩崎弥太郎の興した三菱商会に父も参画したため、大阪に移り、岩崎邸内に開かれた英語学校で勉強しました。
 明治7年慶応義塾に入りましたが、間もなく自主退学しました。明治10年21歳のとき渡英して、グラスゴー近郊のレンフリューの造船所で、船舶機械技術を学びました。(グラスゴーと言えば、ニッカウエスキー創業者の竹鶴政孝も1918年(大正7年)からグラスゴー大学に留学しています) さらに、明治11年から翌春まで、グラスゴー大学技芸科に学び、28歳のとき帰国し、三菱製鉄所機械士となりました。その後機関士、日本郵船の製図掛を経て、33歳のとき本社の機関監督助役となりました。
 龍吉の父は明治22年第3代日銀総裁となり、明治28年には男爵の位をあずかりました。翌年父が死亡したため、龍吉が爵位を世襲することになりました。明治30年、横浜船渠(ドック)初代社長に就任しましたが、イギリスで見聞した上流社会の影響をうけたのか、翌年軽井沢に別荘を設け、33年には約200haの農場経営にのりだし、イギリスより種馬2頭を輸入し、高原野菜の栽培を計画しました。
 このころ、函館ドックの前身函館船渠では、日露戦争後業績不振となっており、川田にその経営立て直しを依頼してきました。そこで、明治39年(1906年)同社の専務取締役になり、翌40年の函館大火や暴風雨、不況にもめげす経営を軌道に乗せていきました。
 そのかたわら、着任した秋に函館近郊の七飯の農場約九ヘクタールを購入し、その経営にも着手しました。そして翌年イングランドのサットン父子商会などに明治40年産ジャガイモ種子などを発注しました。明治41年早春、七飯に着いたジャガイモ品種の中に後日「男爵薯」となる北アメリカ産「フラワー ボール Flour ball 」(別名アイリッシュ・カブラー Irish Cobbler)も含まれていました。同年アメリカのダーリン・ビーハン商会から輸入したものの中にも異名同種の「アーリー・ペトスキー Early Petosky 」がありました。
 この原種は、北米に住むアイルランド系靴直し屋さん(アイリッシュ・カブラー)が、明治9年(1876年)ころ「アーリー・ローズ」(早生で、皮色が紅)と言う品種を栽培していた畑の中から見つけた皮色の白い枝変わりでした。その発見場所が北米のどこであったかについては、マサチューセッツのマーブルヘッドと、ニュージャージー州のランバートンの2つの説があります。
 この品種は、20世紀初頭、イングランドでは「ユリエカEureka」、「アメリカ」、「フラワボール」などいろいろな呼び名がつけられていました。
 (「ユリエカ」とは、ギリシャ語で「見つけた、分かった、解けた」という意味です。この言葉は王冠の金の純度を調べる方法を求められていたアルキメデスが比重によって決める方法を思い付き、感激のあまり風呂から裸で飛び出したときに叫んだ言葉として有名なものです。靴直し屋さんも、紅の薯のなかに白い「男爵薯」を見つけたときこの言葉を口にしたかも知れません。)  アメリカからは、このころドビー社とかサットン父子商会がジャガイモをイギリスに入れていました。川田の注問したイモが日本に着いたのは明治41年1月、このイギリスのサットン商会が送ってきたものでした。川田が52歳の年でした。
 川田が導入したいくつかの品種の中で、七飯村の成田惣次郎の母が農場で働いていたとき分けてもらった早生品種は成績がいつも良いものでした。このため近所さんやその親戚に知られ、七飯近郊にしだいに広まっていきました。
 それがいつしか「男爵薯」と呼ばれるようになりました。この一風変わった名がついたのは、原名が判らなくなったことや、近所で「男爵さん」と呼んでいた川田の農場から出たことに因んでつけられたものと思われます<ひよっとすれば爵位の有難さを利用して売り込もうとして付けたものかも知れませんが?>。正式に「男爵薯」と決ったのは昭和3年(1928)、北海道の渡島・釧路・根室地方限定の優良品種に決まったときのことです。このころから道内や本州(北海道では内地と呼んだ)の認知度が徐々に高まり、3年後には全道の優良品種として認められました。
 当時は主婦でもジャガイモを馬鈴薯と呼ぶことが多かった。今日でも「男爵薯」は北海道では片栗粉用の「コナフブキ」についで栽培され、非常に人気があります。本州東北、関東、北陸など全国にも栽培されており、日本で一番広くつくられています。いつだったか、NHKの「連想ゲーム」で、『ジャガイモ!』のヒントで坪内ミキ子さんが「男爵」を一発で当てたこともあったほどです。
 実は、川田の導入の前にその「ユリエカ」の名で札幌に入っており、明治39 年の北海道物産共進会に出品されていました。しかしこの種いもから道内には 広まらなかったようです。
面白いことに、川田自身も異名同種とは知らず?に、後年また「Eureka」を導入し、昭和9年(1934)「ユレイカ」、有名な「ラセット・バーバンク」、「シックス・ウィーク」、「グリーン・マウンテン(蝦夷錦)」を植えた記録が残っています。
 最近「男爵薯」を改良し、もっと早生で、大きく、色白やや偏平で、ポテトチップスにも向く「伯爵(ワセシロ)」というジャガイモもあります。この品種の母方父方両曾祖父は「男爵薯」又はその子「農林1号」。この外「男爵薯」の血を引く品種は数多く、「農林1号」(男爵薯 X デオダラ)、カロテンやビタミンCの多い「キタアカリ」(男爵薯 X ツニカ)などもあります。3品種とも「男爵薯」の良風味をも受け継いでいます。

ワセシロ(男爵薯の血25%)、農林1号(50%)、キタアカリ(50%)

(写真左:函館市五稜郭公園裏門)(写真右:七飯町鳴川赤松国道沿い)  この川田導入の大品種を記念した碑が2つできています。そのひとつは、函館市五稜郭公園裏にあり、題字には「男爵薯を讃う」とあります。これは昭和22年5月に建てられ、北海道帝国大学総長で菌類学者であった伊藤誠哉さんの筆によるものです。建立当初は五稜郭公園の正面入口にありましたが、車が増え、交通渋滞の原因になってしまったため、五稜郭築城100年を期して拡張工事が行われた折に、裏門外の市営バス停「五稜郭公園裏」の近くに移されました。
 碑の2つめは、函館より国道五号線を大沼公園に向かって30分ほど行った、七飯町桜岡にあります。イモ判官こと湯池定基 らの植えたアカマツ並木の中にあって、函館湾を背にしています。
 「男爵薯」の導入については、いくつかの異説があります。すなわち、ノルウェーのラッコ密漁船が函館ドックに入っていた時、ドック付近に火事があり、ジャガイモを多量に寄贈したことがありました。それを持てあましていたところに顔を出した人がいたので、川田が分け与え、七飯を中心に広まった、とするものです。
 また、仙台藩一門亘理(わたり)当主の末えいの伊達男爵(虻田郡伊達町)がつくりだしたものであるとか、旭川の永山男爵に因んだもの、さらに明治11年に道南の八雲に入植した徳川家の子孫が海外から多数のジャガイモ品種を導入試作し、販売したことがありましたが、そのひとつである、とする説などがあります。
 しかし、それらの多くはその子孫自身によって否定されている外、北海道農事試験場の吉野至徳・宮沢春水さんの研究(『農業及園芸』第8巻1号)などにより川田導入説が正しいことが明かとなっています。
 明治四十四年、川田は函館ドックを辞任しましたが、七飯の農場とは別に、現上磯町の渡島当別に約1,200haの山林、農地の払い下げをうけ、農場建設に本格的に乗り出しました。この農場には、アメリカよりトラクタとか、草を刈るモーアなど、当時の最も進んだ農業機械を導入し、酪農、畑作、林業の分野で先進的経営に乗り出しました。
 第二次大戦後の農地開放にもめげずに、農場経営などを続けていましたが、昭和26年、95歳のとき農場で亡くなりました。
 川田については、ジャガイモとは無関係なことで紹介しておきたいことがいくつかあります。
 そのひとつは、彼がトラピスト修道院で洗礼を受けキリスト教徒となったのが92歳という高齢であったことと、また、明治34年にアメリカ製蒸気自動車ロコモビルスタイル・二・スタンダードを新橋で2,500円で購入し、日本人としては最初のオーナードライバーとなったことです。このナフサを燃やして走る蒸気自動車は、SLを思い出すようなごついものではなく、車体は小さくスマートであり、3〜4馬力のもの。時速20〜40kmで走られたといいます。当時のガソリン車に比べて、扱い安く、音が靜かで、振動が少なく、坂を登る力が強いものだったらしい。


附.北海道の明治・大正時代の馬鈴薯栽培面積(ha)と単収(kg/10a)
明治19年(1886)...2,538ha..1,044kg/10a(面積は札幌県>函館県>根室県)
明治30年(1897)..10,169....1,074
明治40年(1907)..23,836....1,093
大正 5年(1915)..57,869....1,100
大正 8年(1919).101,990....1,267
昭和20年(1945)..78,376......760
平成15年(2003)..55,600....4,110
平成24年(2012)..53,400....
昭和時代の北海道のジャガイモ品種別作付の動き
北海道の昭和初期の作付は旭川の神谷酒造(後の合同酒精)がドイツから入れ た「Prof. Wohltmann」つまり「神谷薯」や「金時薯」、「蝦夷錦(Green Mountain)」が中心で あり、「男爵薯」「ペポー」が増えていた。昭和12(1936)年豊産性の「紅 丸」が育成されるとともにこれが急速に普及していったが、この間昭和3年奨 励品種となった「男爵薯」が漸増をつづけ、昭和20年頃以降作付の約半分を占 めるまでになっていた。「神谷薯」、「ペボー」、「蝦夷錦」などは昭和30年 ころまでには影をひそめてしまった。昭和18年には「男爵薯」の子供「農林1 号」が育成されるとともに「紅丸」を侵食していき、昭和33年には両者とも 19%前後となったが、「男爵薯」はほぼ5割を堅持していた。その後多目的に使 用可能な「農林1号」が伸び、昭和40年代は「農林1号」>「紅丸」>「男爵 薯」、その後は用途が明確化てきて「農林1号」は再び澱粉専用の「紅丸」に 首座を譲り、食用の「男爵薯」の比率が高まっていった。


「男爵薯」は何故長生きしているのか
19世紀に見いだされた「男爵薯」がまだ我が国では人気が高い。最初は農家 に好かれ、その後消費者に知られ、その嗜好性が支えたものと考えています。 まず農家に好かれた理由は、熟性が早生で、ジャガイモの大敵(カビ)の被害が 大きくなる前に収穫できること、早生なので後作に秋まき小麦や野菜の導入が 容易なこと、休眠期間が長く保管が容易なことにありましょう。
消費者には、ホクホク感が好まれ、貯蔵性があり、丸いもの中では目が深く次 に選択するときの目安になったものと思われます。

古い品種が主役なのは欧米も同じ
アメリカでは、1914年に見つけられた「ラセット・バーバンク(Russet Burbank)」があります。これは見た目は悪いものの大きないもがたくさん取れて、しかも取扱いが楽なので農家にまず好まれ、さらにアメリカ人の大好きなフレンチフライにも 適しているので、今でも人気1番の品種となり続けています。
オランダでも、学校の先生が育成し、クラスの可愛っこちゃんの名前を付け て1910年から売り出された「ビンチェ(Bintje)」が、その豊産性のためまず農家から受け入れられ、第一次大戦に普及し、その後パリーでフレンチフライにも向くことわかったこともあって、今日でも癌腫病のでるドイツを除き、ヨーロッパ各地に広く普及しています。
 ジャガイモには、主婦がスーパーで購入してくるものの外にいろいろの用途 があります。北海道産の多くは片栗粉用に使われ、ポテトチップに回る量も多 い。これらに使われるものは前者なら澱粉含有率が高いことが歩留りに影響し ますし、後者なら加工歩留りよく、カラーのよいものが求められます。このた めこれらの業務用に向く新しい品種が登場すると、容赦なくそれに変えられて しまいます。
しかし、「男爵薯」、「メークイン」といった生食用ジャガイモは、消費者 の嗜好性で決まり、欧米でも見るようにその保守的嗜好性に支えられていま す。今後『ホクホクして煮崩れし難いもの』が開発され、消費者が見分けやす い特徴があればなおよく、栽培しやすく農家の利益にもつながる品種が出てく るまで大品種の座は揺るがないことでしよう。
近年北海道の各地でジャガイモシストセンチュウの被害が拡大しつつあります。現在(2015年)の北海道の4大品種「コナフブキ」、「男爵薯」、「トヨシロ」、「メークイン」は、これを栽培することによってこの線虫密度が約10倍になります。このため、指導機関ではこれらを線虫抵抗性品種に変えようとし、品種開発もそれに沿って精力的にすすめられています。「男爵薯」を浸食しそうな品種としては、その子の「キタアカリ」(粉質、黄肉、ビタミンC多)、続いて「とうや」(粘質)、「きたかむい」(やや粘質)、「ピルカ」(やや粘質、黄肉)があります。



* エッセイ T 目次へ行く
* 当館内の項目からの検索へ行く
* 品種解説・男爵薯へ行く
* ジャガイモの皮の話(皮だ男爵)へ行く
* 七飯の赤松並木・湯地定基へ行く
* ジャガイモ・五升いもへ行く
スタート画面へ行く