西暦年 | 年号 | 記 事 |
1543 | 天文12年 | ポルトガル人が種子島に漂着 |
1576 | 天正4年 | ポルトガル船が長崎に来航。「南京芋」(=サツマイモか)が入った(長崎両面鏡) |
1584 | イスパニア(スペイン)商船平戸に来航 | |
1589 | オランダの地理学者、地図制作者オルテニウスが『太平洋新図』に銀の島(北海道)をほぼ菱形に描いた | |
1596 | 慶長元年 | オランダ人ジャワ島に上陸 イスパニアのサン・フェリペ号土佐に漂着 |
1600頃 | ジャカルタ経由で長崎か平戸へ入る。 1598年(慶長3年)南蛮人(蘭人はまだ来航していないはず)が長崎(この年ならば平戸か)に「ジャガイモ」を持ち込んだ?(長崎誌) | |
1600 | 慶長5年 | オランダ人がリーフデ号で豊後のサチヴイ(臼杵市)に漂着。イギリス人航海長は帰化した三浦あん按針 |
1602 | 慶長7年 | オランダがジャガタラに東印度会社を設立 |
1603 | 慶長8年 | 徳川家康征夷大将軍となる |
1609 | 茎長14年 | オランダ船が平戸に入港。商館設立 |
1616 | 元和2年 | 欧州の船の入港を平戸・長崎に制限 |
1624 〜44 | 寛永のころ、家畜の飼料として栽培したが、食用にも利用(草木育種)(経済要録) | |
このころ、ジャカルタに100人ほどの日本人がいた | ||
1635 | 寛永13年 | 外国船の来航を長崎・出島に制限 |
1641 | 寛永18年 | 鎖国令によりオランダ商館は長崎の出島に移転 |
1701 | 北海道に住むアイヌ人約25,000人、和人20,086人 | |
1706 | 宝永3年 | 道南の瀬棚村の浜場で、松兵衛というものがジャガイモを栽培(馬鈴薯ニ関スル調査) |
1711 | 正徳元年 | ロシア人が占守島、幌筵島にきて上陸(福山秘府) |
1716 -1735 | 亨保年間 | 北海道日本海岸の現太櫓町に導入(四郡沿革史)。 アイヌ民族に穀類を植えさせる |
1718 | 亨保3年 | 漁場請負人が先住民にすすめて小樽手宮町及び高島村に栽培さす |
1739 | 天文4年 | 松前邦広、福島村及び大野村に新田を開発(福山秘府) |
18世紀 | 飛騨の代官幸田善太夫甲州いもを信州に入れた(慶応元年、大坪二市『農具揃』) | |
1751 | 宝暦元年号 | 松前藩が加藤嘉兵衛をサハリンに遣わす。翌年クシュンコタン外で漁場を開く(松前町史) |
1754 | 宝暦4年 | 長崎債物請負商が松前にきてコンブなどを一手に買受ける許可をとる |
1771 | 明和8年 | ロシア人がウルップ島でラッコ猟をし、千島のアイヌ民族と衝突 |
1772〜88 | 安永〜天明 | 山梨県甲斐で栽培(嘉永元年1849宮本定正『甲斐の手紙』) |
1781〜88 | 安永〜天明 | 新潟県越後、宮城県陸前で栽培(明治24年1891『大日本産業事蹟』) |
1772〜88 | 安永〜天明 | 群馬県上野田代で越後より導入栽培(明治29年1896松本相秀『いもの原由記』) |
1775 | 安永 4年 | オランダ医師ツュンベリーが翌年まで日本国内を調査し、帰国後小粒芋しか生産していず、失敗していると記述。 |
1778 | 安永7年 | ロシア人がウルップ島からノッカマップ(根室)に来て、通商交易を求めたが松前藩が拒否 |
1783 | 天明3年 | 天明の大飢饉始まる |
1786 | 天明6年 | 幕府蝦夷地調査隊の大石逸平がサハリンに渡りクシュンナイに至る |
最上徳内がエトロフに渡り、ロシア人イジュョゾフに会い、ウルップ島にも渡る | ||
1787 | 天明7年 | フランス人ラ・ペーズ日本北地を探検 |
1790 | 寛政2年 | 松前藩士高橋寛光をサハリンにやり、自主勤番所を設ける |
最上徳内の『蝦夷草紙』できる | ||
1791 | 寛政3年 | 最上徳内らが松前に来る。その後厚岸霧多布、国後等でアイヌと交易。エトロフ、ウルップを検合 |
1792 | 寛政4年 | ロシア使節ラックスマンが、漂民を伴って根室沖に来航し通商を求め、厚岸島に上陸。 大黒屋光太夫、磯吉、小市の内小市は帰国後すぐ壊血病で死亡。『北さ聞略』 |
1793 | 寛政5年 | ラックスマン一行函館港に入る |
1796 | 寛政8年 | ブロートンの指揮する英船ブロヴィデンス号が海図作成のため、虻田に上陸し、薪水をとる |
1798 | 寛政10年 | 近藤重蔵エトロフ島に渡り、タンネモイに大日本恵土呂府の標柱を建てる(休明光記) |
1798 | 寛政10年 | 最上徳内が近藤重蔵にあてた手紙で「ごしやう芋」と記述、報告 |
1799 | 寛政11年 | 高田屋嘉兵衛、択捉航路を開く。最上徳内『蝦夷草紙 続編』できる |
1800 | 寛政12年 | 伊能忠敬北海道東海岸等を測量作図 |
1800 | 寛政12年 | 幕府千人頭原胤(半左衛門)白糠で奨める |
1804 | 文化元年 | ロシア使節レザノフ、長崎に漂流民を護送し、貿易を求める。翌年幕府の拒否にあい、カムチャッカに向かう |
1806 | 文化3年 | ロシア人サハリン東海岸に上陸して乱暴 |
1807 | 文化4年 | ロシア船2隻エトロフに来襲し、番屋を焼く(通航一覧、休明光記) |
ロシア船礼文島沖で松前の商船宣幸丸を追撃、掠奪後船を焼く(休明光記) | ||
ロシア船がノサップ沖で松前船禎祥丸を襲い、兵器を奪う 利尻島で、幕吏の乗った万春丸を襲い、兵器等を奪う | ||
1808 | 文化5年 | 小野蘭山の『耋莚小牘てつえんしょうとく』」で「馬鈴薯」と記述 |
1809 | 文化6年 | 間宮林蔵、サハリンを探検、間宮海峡を発見 |
1811 | 文化8年 | ロシア船ディアナ号が千島を測量して、国後のトマリに来る 松前奉行のものがロシア艦長ゴロウニンほか7名をとらえ、箱館に送り、福山に拘束(通航一覧) |
1812 | 文化9年 | ディアナ号副将リコルドが国後に来て、漂流民6人と交換にゴロウニンの放還を求めたが聞き入れられず、帰途国後島沖で高田屋嘉兵衛を捕らえ、カムチャッカに連行 |
1816 | 文久元年年 | 箱館奉行官船亀田丸交易のため、ロシアのニコラスクに絹布、醤油、ジャガイモなどを持参(道史 7) |
1818 | 文政元年 | 岩崎常正著『草木育種』「せいろいも(松露いも)」とか蛮名「カイトース(Kartoffelか)」も載せている |
1820 | 文政3年 | 根室でジャガイモを栽培(根室郷土史) |
1825 | 文政8年 | アールド・アッペンはサツマイモだと誤記。幕府の(厚生新編) |
1827 | 馬鈴薯俗にジャガタライモ、或いはオランダイモと言う者あり(経済要録) | |
1830〜 | 天保年間 | 根室漁場請負人柏屋藤野嘉兵衛などが根室で蔬菜などと栽培 |
1836 | 天保7年 | 東北地方を中心に全国的飢饉 このため蘭学者の高野長英がジャガタラ芋栽培を奨励(救荒二物考) |
1837 | 天保8年 | 中井清太夫前任地の甲州から導入。(甲斐甲府代官時代にも栽培を奨励して感謝されていた)「八升イモ」 |
1845 | 弘化元年 | ロシア船1隻エトロフ島に来泊(松前家記) |
弘化年間 | 松浦竹四郎『初航蝦夷日誌』(12巻)を著す | |
1846年 | 弘化2年 | ロシア船エトロフ島に来泊、翌日去る 松浦武四郎が『再航蝦夷日誌』を著す |
1848 | 嘉永元年 | アメリカの漁民15人江良町村に漂着 アメリカ人37人北蝦夷地に漂着 |
1849 | 嘉永2年 | 32歳松浦武四郎が北方領土を詳しく調査し、後日『三航蝦夷日誌』(8巻)を著す(吉田武三校註『三航蝦夷日誌 上下』知内村で馬鈴薯を多くつくっていること等を記述) |
1850 | 嘉永3年 | イギリス人32人厚岸に漂着記 |
1853 | 嘉永6年 | ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航 |
1853 | 嘉永6年 | ロシア兵サハリンのクシュコタンに上陸。 ロシア使節プーチャーチン軍艦4隻を率いて長崎に来航 |
1854 | 嘉永6年 | ロシア兵サハリンのクシュコタンに上陸 |
1854〜 | 安政年間 | 藤野嘉兵衛のお抱番人兼通訳の加賀屋伝蔵がアイヌを使ってノッケ沼(現別海町)及びその東オンネニクル(野付半島)で客土して五升芋(すないも)【ジャガイモのこと】を栽培 『村垣淡路守公務日記』中の公文書記録によると五升芋として記載され、その出現頻度は安政末〜万延元年にかけて高くなっている。これは自給用よりも換金作物として、箱館近郊に栽培されるようになったことを示していよう |
1855 | 安政2年 | 箱館開港。外国船が、牛やジャガイモを欲しがったので箱館を開発し、御手作場にジャガイモをつくるよう勧める |
1855 | 安政2年 | 泊村字山の上に導入(?) |
1856 | 安政3年 | 松浦武四郎、道南の木古内、熊石村等で「馬鈴薯」つくりを見聞し記録 |
1856 | 安政3年 | 「五升芋」(村垣淡路守奉行の『村垣公務日記』) |
1857 | 安政4年 | 澤町奥字百姓澤に導入(?) |
1857 | 安政4年 | アメリカ商船2隻の求めに応じ、五升芋250俵を供給 村垣淡路守奉行はさらにジャガイモ栽培を奨励 市内亀田の栄治という人が水車を動力として澱粉製造を開始(丸山道子「安政四年の蝦夷地」) |
1860 | 安政6年 | 秋田県羽後で北海道から導入(岡田明義『無水岡田開闢法』) |
1861〜 | 文久年間 | 澱粉製造の外、切干し、焼酎などの製造も試みられた |
1861〜 | 文久、慶応年間 | 磯谷郡蘭越町などでもジャガイモ栽培が目立つようになる |
1873 | 明治6年 | 箱館近郊の七重官園でアメリカより「アーリーローズ」や「スノーフレーク」など数品種を導入 |
1875 | 明治8年 | 七重官園が根室や札幌に種いもを配布 |
1877〜 | 明治10、11年 | 札幌官園、札幌農学校がアメリカより「アーリーローズ」、「グリーンマウンテン」など多数を導入 |
1878 | 明治11年 | 国内の馬鈴しょ栽培面積9,550ha。単(10a)収340kg |
1880 | 明治13年 | 札幌農学校が三田育種場より英国種10品種、フランス種6品種を導入して試作を開始 |
1880 | 明治13年 | 根室官園種いも配布開始。品種は「根室」 |
1882 | 明治15年 | 芋判官こと湯地定基七重勧業試験場から初代根室県令として着任 |
1881 | 明治17年 | ジャガタライモ、ゴショウイモ(仙台)(植物名彙) |
1882 | 明治18年 | 芋郡長こと林顕三久遠奥尻太櫓瀬棚の郡長として赴任 |
明治後半〜大正 | 北海道の品種は「アーリーローズ」「雪片」「根室」 | |
1901 | 明治34年 | 北海道の栽培面積17,356ha。単収709kgこの頃疫病が大発生 |
1907 | 明治40年 | 全国の栽培面積約58,300ha単収950kg |
1908 | 明治41年 | 川田龍吉専務アメリカ生まれの「アイリッシュ・カブラー」をイギリスより導入 |
1945 | 昭和20年 | 全国の栽培面積213,100ha。単収830kg |
1961 | 昭和36年 | 全国の栽培面積217,300haのピーク。単収1,770kg |
1999 | 平成11年 | 全国の栽培面積97,700ha(内北海道61,400ha)。全国平均単収3,033kg |
4が、第二次大戦後からソ連が占拠し続けている日本の領土です。不可侵条約を破ったソ連軍が侵入するまで、それまで一度もロシアの人が住んだことのないわが国固有の島々です。