2.日本人で最初に食べた人は
ポテトチップ誕生から約10年すぎた1872年サラトガ・スプリングスに立ち寄りそれをたべた日本人がいました。
廃藩置県のあった年、岩倉具視は外務卿(外務省の長官)に就任した。かつて徳川幕府が結んだ不平等条約・日米修好通商条約は条約改正について取り組む必要があり、欧米をめぐることになった。その岩倉使節団には岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議・木戸孝允や大蔵卿・大久保利通、工部大輔・伊藤博文らを副使として伴い、明治4年(1871年)11月に横浜港をた発った。
この一行が、1872年(明治5)の旧暦5月10日、ナイアガラの滝見物のあと、ボストンに向かう途中で、ポテトチップ発祥の地サラトガ・スプリングスに立ち寄り、2泊したことがありました。使命とは別いろいろなカルチャーショックを受けてきました。
岩倉具視察団の報告書『米欧回覧実記』にその時の様子が書かれているので引用します。
《山上ニ一亭アリ、此ニ休憩スレハ、主人「モーレン」氏酒及ヒ蕃薯ノ油煎ヲ供ス、是ハ蕃薯ヲ薄片ニ截テ、油ニテ煎熬セルモノ ニテ、此地ノ名産ナリトイフ》(岩波文庫『特命全権大使米欧回覧実記(一)』289p)
この本の著者である久米邦武は、酒とともに供された土地のめずらしい名産品の原料をサツマイモと思ったかジャガイモと理解していたか不明です。政府に近い人びとは当時ジャガイモを蕃薯、五升薯、馬鈴薯とも呼んでいたらしいから。
一般にはアメリカの進駐軍によって知らされたことはもちろんです。
3.我が国でリアル・ポテトチップスの製造を始めた人は
わが国でのポテトチップス製造の元祖は、浜田音四郎と言う人。
彼は明治44(1911)年11月生まれの和歌山県出身。昭和の初めに外航船の船員になり、ハワイで、ポテトチップスの製造の携わった経験があり、太平洋戦争中には日系人収容所に入れられていたが1946年に帰国した。
数年故郷で過ごして食糧事情の悪さにショックを受けた後、意を決して上京。健康を担保に銀行から融資を得て、1950年に牛込納戸町に小規模バッチ式手揚げの「アメリカン・ポテトチップ」と言う工場を建て、『フラじるし』のチップをつくった。
北海道のジャガイモを原料に使い、新宿と市ヶ谷で売り出した。当時は35g入りで36円(アメリカドル換算当時で10セント)でした。最初は米軍のキャンプに納品することが多く、一般市民にはあまり買ってもらえなかった。しかし朝鮮戦争の終結とドル防衛策の影響から方向転換をせまられ、浜田社長は帝国ホテルに最高のものを納める外、各地のビヤホールなどを回って、宣伝に努めたため、まもなく順調に売れるようになりました。
高度経済成長と食の欧米化の影響でポテトチップスもスナックのひとつとして日本人によく知られるようになっていきました。
1958からおつまみ製造を手がけていた湖池屋の前会長の小池和夫さんが飲み屋でアメリカのポテトチップスを口にし、これは行けると判断していました。試行錯誤の繰り返しの後、1962年表面に青ノリをまぶした<<コイケヤ ポテトチップス のり塩>>を売り出し、翌年にはオートフライヤーと呼ばれる製造機械が開発されてより大規模に揚げることを可能にしました。なお、激辛で人気の<<カラムーチョ>>を出したのは1984年のこと。
1964年は東京オリンピックが開催され、その影響でジャガイモの値上がりが話題になりました。53年から瓦せんべいの製造販売をしていた岩井清吉さんの菊水堂は1964年6月ポテトチップス製造に乗り出した。
清吉さんのお奥さんの妹智恵子さんが甥菊之さんに語った話によりますと、清吉さんが菓子屋仲間と熱海への慰安旅行の際ふすま越しに「進駐軍はジャガイモを薄く切ったお菓子を美味しいと食べている」と聞いたことだったとか。
当初こんにゃく芋用のスライサーに手板をつけてジャガイモを切断していた。当時のお菓子のイメージがあり、初めは砂糖をまぶしたり煮詰めてからめたりしていたが、塩をふりかけたら、美味しいので今の原型にたどりついた。
2000年からは薬学を学んだ長男岩井菊之(きくじ)さんが後をついでおり、作柄を気にしての泥くさい原料いもの買い付けから始まる自社業務のほか、現在日本いも類研究会副会長を務め、新品種の評価試験などに協力してチップスに明るいので、「ポテチ・ソムリエ」と呼ばれることもあります。
1953年設立したスナック菓子販売で知られる山芳製菓株式会社がポテトチップスの製造販売に参入したのは1973年、会社の方針をスナックに特化しコンビニをねらい、後に人気の<<わさビーフ>>の販売を始めたのは1983年でした。
1974年には日本ポテトチップ協会が設立されていますが、この時参加した会社は30社にも達していた。この頃の各社は原料としては早生の「男爵薯」とその子で晩生の「農林1号」を使っていましたが、不足するとこげの多い「メークイン」まで使われていました。しかしこの74年ポテトチップの操業の早期に適する「ワセシロ」が北海道立根釧農業試験場で育成され、76年には中生の適品種「トヨシロ」が農林省北海道農業試験場から誕生すると、良質品種原料の安定確保を指向したカルビーにまず着目され、業界発展の縁の下の支えとなりました。(付記1)
現在もっとも知名度とシェアの高いカルビー株式会社がこの業界に参入したのは1975年と比較的遅い。当時の社長松尾 孝さんが、まず北海道小清水町にあったあみ印食品株式会社北海道工場を買収し、そこでまず自社ポテトチップスを製造し全国に売り出しました。「コンソメパンチ」、「うすしお」、「じゃがりこ」で知られる会社です。80年原料担当のカルビーポテト株式会社を分離独立させ、84年貯蔵庫の機能を備えた北海道から鹿児島などの輸送船「カルビーポテト丸」の就航も話題になりました。この「かっぱえびせん」で知られたカルビーの参入後、日本のポテトチップ消費量は5年で3倍、10年で4倍に拡大しました。ポテトチップはビールのつまみという固定イメージを脱して、スナック菓子、子どものお菓子となりました。
なお、濱田さんは日本ハワイ協会の設立に参加してハワイとの交流に尽力したり、外国出身の関取である高見山を日本に紹介した人でもあります。アメリカンポテトチップ社はその後、解散。「フラ印」のブランドは株式会社ソシオ工房に買い取られた。
蛇足になりますが、生乳酸菌飲料の『ヤクルト』が誕生したのは1955。
付記1.現在ぞくぞく適品種が導入または育成されており、なかでも「スノーデン」(導入品種)、「オホーツクチップ」、「らんらんチップ」、「リラチップ」、「きたひめ」、「ぽろしり」などが注目されています。
5.ハンガリーでポテトチップス税
2011年7月11日ハンガリー議会は国民の肥満防止を目的にカロリーの高い菓子類や清涼飲料水に課税する通称「ポテトチップス税」の導入を賛成多数で可決した。
地元メディアは当初、新税を「ハンバーガー税」と報じていたが、ファストフードが課税対象から外れたため、ポテトチップス税と呼ばれるようになった。
施行は9月からで、包装された市販のケーキやビスケットなども対象で、1キロ当たりの課税額はポテトチップスが200フォリント(約80円)、包装されたケーキ類は100フォリント。
ハンガリーは財政再建を進めており、政府は税の導入で、毎年7400万ユーロ(約81億円)の税収を見込んでいるという。
経済協力開発機構(OECD)が2010年にまとめた初の「肥満報告書」によれば、加盟33カ国中トップは米国で3人に1人が肥満。メキシコ、英国と続き、日本は3%しかおらず、最もやせている。その割にはダイエットに熱心ですね。
話題のハンガリーは成人の2割が「体格指数(BMI)30以上」の肥満大国。いわば国を挙げてのメタボ対策だが、取りやすいところから取って財政再建に、との思惑もあるのかも。
ハンガリーでは 国民の肥満対策が課題になっており、政府は税収を健康問題の啓発キャンペーンに充てると説明している。 海外でメタボ対策に日本食を摂るのはいいが、ラーメンは日本食だからよいとか、ポテトチップスを野菜だと勘違いする人もいるとか。
註.この情報は、次ぎから得ました。
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